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トラウマ 心理豆知識

「我慢」というトラウマ ~「小出しにする」「我慢しすぎない」がわからないのはなぜ!?~

 

今回は「我慢」を取り上げたいと思います。

 

「我慢」や「忍耐」というのは文化的にも「尊いもの」という価値観があるかと思います。

 

一方で、「自分らしく」「我慢し過ぎない」といった啓蒙も最近はよく見かけるようになっていますよね。

 

この記事では、「我慢し過ぎる」ことに焦点をあて、

それを「トラウマにより強化された行動様式」と捉えてみます。

 

日ごろ見過ごしがちな「我慢」について深く理解することで、改めてご自身を知るきっかけになれば幸いです。

 

機能不全家庭

幼少期から成人にいたるまでの脳の発達の順番は、

感情を司る「右脳」が先に発達し

後に「我慢」が含まれる「理性」を司る「左脳」が発達していきます。

 

そのため、10代までは感情的であることが普通の状態です。

幼少期は「感情」や「身体感覚」に養育者が合わせることで、

子どもは自分の感情や身体感覚を理解することができていきます。

 

しかし、機能不全家庭であると、この段階を飛ばすかのような状態になっていることがあります。

 

感情的な時代がなく、「子どもが親に合わせる」という逆転現象が起きます。

 

我慢するのが通常

「自分がどうしたいか」を教えてくれるのは「感情」です。

「我慢する」という場合のほとんどは「感情」や「欲求」を抑えるときに生じます。

 

そのため、「自分は我慢している」と自覚できるためには、

本来感じている「感情」や「欲求」に気づいていないと「我慢している」ことが分かりません。

 

「我慢していると分からない」ので「小出しにする」ことができず

出すときには爆発することになりがちです。

 

「親に合わせる」→「我慢」→「無力感」

幼少期から「親に合わせる」ことが当たり前になると、

自分の欲求は満たされず気持ちや感情も耕されないために

「自分」に対する理解がなされずに、「我慢する力」は強化されていきます。

 

「我慢」は「服従」と繋がっていることがあります。

 

親などの絶対的な強者に対する「我慢」であれば、

弱い立場にはそれ以外の選択肢がないので、従わざるを得ないですよね。

 

一時の「我慢」ではなく「服従」になっていると、「無力感」を連れてきてしまいます。

 

それが大人になってからも、「自分が我慢すればいい」といったような自己犠牲的な対応に繋がっていき、

酷い環境でもただ耐えようとして

多大なストレスがかかる場所に身を置きつづけてしまう傾向が認められることがあります。

 

「自己主張能力」を阻んだ要因

「我慢」を強化する要因に、

「自分の感情や欲求に気づく」ことと「適切な自己主張をする」ことの体験を積めないことが関連していきます。

 

「我慢しない」ためには、「自分の感情や欲求に気づく」という第一段階を経て、

「それを言葉にして表明する」あるいは「その場を去るなど行動に出る」という第二段階があります。

 

機能不全家庭で育つと、どちらの段階もできない要因が重なって発生していたことが多く、

「我慢するしかなかった」ということが当然であるケースがほとんどです。

 

「我慢しないで言えばいい」と言われても、そう簡単ではないのですよね。。

 

ここでは、「自己主張能力を阻んだ要因」について整理していきたいと思います。

 

「協働調整」の欠如

他の記事でも触れていますが、自分の感情や欲求に気づくためには、

幼少期に養育者からの「協働調整」が不可欠だと指摘されています。

 

「協働調整」とは、子どもの不快な態度に養育者が反応し、

それを軽減するように身体に触れたり「怖かったね」等と言葉を当ててあげたりすることをいいます。

 

この「協働調整」の積み重ねで、だんだんと自分の気持ちや体調などを自分ひとりでも認識できるようになっていきます。

 

その上で、「適切な自己主張をする」という段階になります。

 

機能不全家庭であると、「協働調整」という関わりが乏しかったことで、

自分の気持ちや自然な欲求が満たされることがなく、

充分に感じることも許されなかったことで、

「我慢」がより強化されることになりがちです。

 

自分の気持ちや当たり前の権利を認識することが難しければ、

「適切に自己主張する」ということはできないですよね。。

 

自然な感覚の否定

『ポジティブな感情の否定』という記事で詳しく述べていますが、

 

「怒られる」「無視される」ということと同じように

「楽しいことや嬉しいことを否定される」という対応は、

人の心を深く傷つけます

 

自分にとってポジティブな感情を体験できたことに対して「見下し」や「嘲笑」も含めた嫌な態度を受けると、

「喜ぶことは恥ずかしいことなのだ」

「楽しんではいけないのだ」

と判断してしまうことになってもおかしくありません。

 

これはネガティブな感情も同じで、

やっとの思いで「具合が悪い」と伝えたのに「それくらいで。もっとがんばっている人もいる」などと言われてしまったら、

「具合が悪い自分が悪い」と思ってしまいますし、

「もう二度と人に話さない」と固く決意することもあるかもしれません。

 

機能不全家庭では、こういった「子どもの自然な感覚を認めない」という

異常なコミュニケーションがナチュラルに繰り返されているケースが多いです。

 

やっている側は「いちいち考えて」というより「ごく自然な嫌がらせ」なので、

受けた側は相手側の「さも当たり前」かのような態度によって「自分が悪いんだ」と受け取ってしまうのは無理もないことだと思います。

 

機能不全家庭だけでなく、学校や会社、夫婦関係などでも見受けられます。

 

こういった「自然な感情の否定」によって、

自分の気持ちに気付いても否定してしまうようになり、

「自分より他者のことを考えて合わせる」という「我慢」が増してく日々になっていることがあります。

 

「わがまま」という強力な言葉

「わがまま」という言葉は、改めて考えると、

ものすごい言葉だなぁとこの記事をかくにあたって考え込んでしまうほどでした。。

 

「わがまま」って、何の根拠もないたった4文字なのに、

この一言で一切の事情を無視して人格否定し、

罪悪感を抱かせ

その人の主張を完全に退けることができるものすごい威力がある用語ですね。

 

この言葉には気をつけましょう。

 

「わがまま」と言われる状況とは、たいていは「自分はこうしたい」という欲求を表したときだと思います。

 

まず、「○○したい」と思うことは自由です。

それ自体が悪いことでは決してありません。

 

その「希望」について、相手に協力してもらう必要があったから頼んだ結果「わがまま」と言われたのでしょう。

 

だとしたら、相手側は「できない理由を具体的に説明する」ことが適切な対応であります。

 

それを「わがまま」と求めた側に全ての責任と否定的感情を押し付けるのは、間違っています。

 

加えて、「わがまま」と何度も言ってくるようは場合には、

その人自身が「できない自分を認められない」「自分の欲求を第一にしてくれないと気がすまない(だから相手の希望はきかない)」

という課題を抱えていることがほとんどです。

 

つまり「わがまま」と言う側に問題があり、

そちらのほうがよほど「わがままである」といえることが珍しくありません。

 

「わがまま」という言葉は、

相手をコントロールするためには簡単で影響力は甚大である「呪いの言葉」です。

 

そのため、「わがまま」という言葉そのものが幼稚な表現であり論理性に欠けることを知り、

「自分はわがままなのか?」と自問することは止めていくことで呪いを少しずつ解いていけたらと思います。

 

「我慢」の「程度調整」の難しさ

機能不全家庭で育ち、生きづらさを抱えながらも、

周囲に見本となる人がいなかったにも関わらず

大人になるにつれてご自身なりに自分自身を見つめ、

対処法を身につけていっているケースがほとんどです。

 

その中で、自分の気持ちがよくわからなかったり、知らず知らずストレスを溜めていたりするご自身に気づき、

「何とかしよう」とさらなる努力していこうすることがあります。

 

ただその際に、一般的に言われるアドバイスができなかったりピンと来なかったりすることはよく起きます。

 

ここでは、「我慢し過ぎない」「小出しにする」といった「我慢に対する代表的な助言」ができないとしても無理もないということを理解していきたいと思います。

 

「我慢」に気づきにくい

「我慢し過ぎない」「小出しにする」という対処法は、

そもそも「小さい我慢」に気づいている必要があります。

 

けれど、この記事で述べている状況であると、

「自分の気持ちや欲求は抑えて我慢する」ことが「通常モード」になっています。

そのためそもそも自分が「小さい我慢を重ねている」と気づきにくいために「し過ぎない」がわかりません。

 

さらに、小さい頃であれば、仮に「我慢し過ぎて」いて、ご自身の許容量をオーバーしていたとしても、

養育者が対応してくれなければそのままその状態でいるしかできませんので、

トラウマ化することでしか対処ができません。

 

そのため、「これ以上は自分にとっては限界だ」と見定められる体験がないので、

「我慢の程度を調整する」ということは難題になることはおかしいことではありません。

 

加えて、我慢することの「慣れ」や「自分の感覚がわからない」「相手の気持ちを考える」などの複数の要因も関連して、

なかなか自分を優先することができず、我慢に我慢を重ねてしまうことがあります。

 

「我慢しない」ことは恐怖

「我慢しすぎる」という場合、

その人にとって「我慢」は「生き延びるために強化されたスキル」であると思います。

 

そのため、「我慢する」ことで怒られることを防ぐことができたり、

対人関係を円滑に保つことの助けになったりしたことと思います。

 

また「我慢」に慣れて、それが「強みとなるスキル」とも捉えられる場合、

その人は「不穏な空気に耐えられない」といったような

「場の空気や人の機嫌を乱すことを過剰に恐れる」という傾向を持っていることがあります。

 

「自己主張」というのは、それが適切であっても「その場に波風を立たせる」という危険性が伴います。

 

実際はポジティブな働きになるかもしれなくても、過去の経験から、

「我慢しないことは恐怖」と心身に刻まれていることが少なくありません。

 

なので、「我慢」以外の対処があることはわかっていても、

そうしないことの恐怖の方が勝ってしまい、

「穏便に」済まそうとするとどうしても「我慢」になるということがあります。

 

「爆発」を招くメカニズム

「我慢し過ぎる」ことの課題の1つに「出るときは大爆発」ということがあげられます。

 

この「爆発」で発散できれば悪くない面もあると思いますが、

その後の自分自身が傷ついてしまうような出方になってしまうことが少なくありません。

 

「爆発する」ことを真っ先に何とかしようとすると、なかなか難しいのが実際だと思います。

 

これまで述べたように、それ以前には気づきにくいですし、

唯一気づかせてくれるものが「爆発」であるからです。

 

「限界を超えてから気づく」ことを、まずは肯定的に理解したいと思います。

 

ここでは、「爆発」のメカニズムを考えてみたいと思います。

 

「凍りつく」だけでなく「服従」もトラウマに

近年、ポリヴェーガル理論などにより、

「被害時の凍りつき」が周知されるようになっています。

 

トラウマ的な出来事の際、

「逃げることも戦うこともできないと凍りついたように無抵抗な状態になる」というものです。

 

機能不全家庭に代表されるような長期に渡る年月を考えるとき、

「凍りつき」とはいえないけれど「服従」を強いられていたということがいえると思います。

 

子どもなど弱い立場に選択権はなく、「従うしかなかった」年月が長ければ、

それは「強固な我慢の連続」になります。

 

同時に、「服従としての我慢」がトラウマになっていることも珍しくありません。

 

そうしますと、「我慢に慣れて」いながらも、

「我慢」はその人にとってトラウマを刺激する「トリガー」になってしまうという複雑な状態になり得ます。

 

「新たな我慢」がトリガーになる

「出るときは爆発」を考えるとき

「きっかけはすごく些細なことだった」

「覚えていないくらいどうでもいいこと

と話されるケースはとても多いです。

 

だからこそ、ご本人は自分の爆発が不適切であるような気がしてしまうし、

どうしていいかわからずに自分への不信感を強めてしまうこともあります。

 

けれど、先に述べたように、「我慢」が「トラウマ的」になっていたら、

どんなに些細なことであっても「我慢」を体験することは基本的にその人にとってトラウマの再体験となり得ます。

 

そのため、「我慢」によってトラウマ反応が喚起された場合に、

強烈な「恐怖」に同時に見舞われることがあります。

 

「新たな我慢」にトリガーされた「恐怖」が、

ときとして「爆発」となって「戦う」にシフトしたと捉えられることがあります。

 

 

「我慢」がトラウマ反応のトリガーになる別の反応として、

「他者の身勝手さが許せない」という形で現れることがあります。

 

「我慢」が「服従的」で継続されたことでトラウマ化した場合、

「我慢にまつわること」がご自身の心の傷を刺激します。

 

自分であれ他者であれ、「トラウマが喚起されただけ」と気づくことができると、

その強烈さが軽減されていくとされています。

 

状態依存反応

「トラウマ反応」と似たような心身の反応に「状態依存反応」というものが有名です。

 

「状態依存反応」とは、「トラウマ」に限らず、

ある刺激と同時に起きた反応が、似たような刺激に接したときにかつて同時に起きた反応とセットで生じることをいいます。

 

例えば、「カレーの匂いがした」ときに、「かつての家族の団欒」がイメージされ、美味しそうで暖かく楽しい心境になるといった反応です。

 

「トラウマ反応」は、「状態依存反応」が「異常に活性化された」とも解釈できる場合があります。

 

「我慢」について考えると、どれか1つを取ったら「些細なこと」かもしれません。

けれど、トラウマを抱えていた場合、

かつて「我慢」と共に生じた感覚、例えば「悔しさ」や「無力感」「怒り」などがセットで感じられており、

それも含めて「我慢」することで、

「今起きていること」そのものの強さよりも我慢の負荷が重くなっていると考えられます。

 

つまり、客観的に分かる程度以上に、自覚している以上にストレスフルになっていると考えてみる必要があります。

 

「生命の危機」

生き物の本能的な防衛行動として、

「無抵抗でじっとしていたかと思ったら突然猛烈なパワーで反撃をする」という爆発的な行動が認められています。

 

これは本能的な「身を守る」行動であり、意識的なものではありません。

 

「我慢の先の爆発」を考えたとき、

理性ではなく身体的に「これ以上我慢したら危険だ」と生命体として判断すると、

爆発的な行動(主に怒り)になると考えられます。

 

そのため、「爆発的な吐露」は、「生命の危機」的な状況をなんとか打破しようとしたことであり、

客観的な事態がどうであろうとも、その人にとっては「耐えられない」ものであって、

「爆発」が必要だったということになります。

 

「ストレス」は積み重なれば、本当に些細なことでも「最後の一滴」になってしまいます。

 

「我慢」も同じで、「爆発的な怒りの発露」は、それこそ「最後の叫び」なのかもしれません。

 

だとしたら、それをさらに抑え付けようとしたり否定したりすることは、

どれほど危険なことであるか想像できるかと思います。

 

そうするしかないほどに、がんばり続けているのだと理解することが

「変える」ことの前に大切になるのではないかと思います。

 

対処法

「我慢」というのは生きる上である程度は必要ですよね。

決して必要のない能力ではありません。

 

ですので、「我慢し過ぎる」ことに悩んでいる場合、

「我慢スキルはもう充分身についている」と考えたいと思います。

 

「我慢スキルは充分にある」と理解するだけでも、不要な「我慢」を防ぐことに繋がります。

 

その上で、ご自身を不健康にするほどの「我慢」を減らし、

別のスキルを獲得していくことをイメージしたいと思います。

 

まず「爆発」した後に検証する

「我慢の限界」による「激しい怒り」という「爆発的な出し方」をすると、

どうしても「爆発するのを止めよう」と思います。

 

ただ、ご本人が「止めたい」と誰よりも思っていることから分かるように、

「そうしなくて済むならしたくない」のですよね。

 

だとしたら「たまに爆発してしまう」ことは、今できる唯一の出し方であるのだと思います。

 

ですので、始めに「爆発しないように」ということを検討してしまうと、

唯一の表出も「我慢」することになってしまい、結果的にうまくはいかないことが多いです。

 

そのため、まずは「爆発した後に」検討してみるようにしたいと思います。

 

これまで述べたように、「爆発時」に何か特別なことがあったわけではなく、

日々の積み重ねた「我慢」の結果であることがほとんどです。

 

そのため、「爆発時」だけでなく、

それ以前のことも「爆発に繋がった要因」を後から知っていくことで、

ストレスが消化され、心が整理されます。

 

逆にいえば、「爆発時」だけに注目し「もう爆発しないようにしよう」とだけ心がけると、

せっかくの「爆発」という対処も報われず、消化にもならないまま、

失敗体験のようになってしまうことがあります。

 

始めのうちは、「爆発は自分を知るチャンス」と捉え、その後に丁寧に振り返ることの繰り返しで、

結果的に爆発を減らしていけるかと思います。

 

「我慢」の自動反応に気づく

ここまで述べてきたように、「とりあえず我慢する」というような形で、

自動的に自身の不快感や率直な気持ちを飲み込む傾向がある気づいていきたいと思います。

 

これまでの経験から、「我慢するしかない」という学習によって強化されてきた自動的な反応であると知り、

「我慢しているのかも」と意識にあげてあげましょう。

 

行動傾向に気づく

同様に「従う」という強化された行動傾向に気づいていきましょう。

 

先ほどの「我慢の自動反応」と同様に、

無意識、反射的に同じ行動を人は取りがちであるので、

それを「意識する」ことができると、変化が始まります。

 

改めて「選ぶ」

幼少期から強化された「我慢」であれば、

それは「自分で好んで選んでいるわけではない」といえます。

 

大人になった今、

「我慢」を選んでもいいし、

「我慢しない」を選んでもいいし、

「妥協点を探る」ことも自由です。

 

そのため、始めは「つい我慢した後で」で大丈夫ですので、

「自分はどうしたかったのか」「選択」することに慣れていけたらと思います。

 

その結果が、同じ「我慢する」であってもいいのです。

 

大事なことは、「自動的に」「反射反応で」我慢する、のではなく、

「自分がどうしたいかは自分で選んで決めていい」という選択権を取り戻すことにあります。

 

関連記事『人生の選択権を取り戻す』

 

「自己統制感」を取り戻す

先ほどの「自分の行動は自分で選択できる」という感覚は

「自己統制感」を取り戻すことに繋がります。

 

先ほど「我慢スキルは充分あるので別のスキルを育てていく」と述べましたが、

「自己主張能力」は育っていない可能性が高い代表的なスキルですよね。

 

少しずつ「自己主張してもいい」と試みていくこともとても有効な対策です。

 

「トラウマを負う」ということは「自己統制感が失われること」と定義されることがあります。

 

「自己統制感」とは、「自分の感情や思考、行動は自分自身でコントロールできる」という

人が生き生きと生きる上で欠かせない大切なものになります。

 

今回のテーマである「我慢」について考えると、

「我慢するしかなかった」「従うしかなかった」という「自分の気持ちや思考や行動に自由がなかった」ことがベースになっています。

 

そのため、改めて自分の気持ちや欲求、考えや行動を知ることは「自分を理解する」ことになり、

それを意識することは「コントロール感覚」の回復に繋がります。

 

「我慢」があったということは、「我慢した気持ちや欲求があった」ということです。

 

それを見つけてあげ、意識し、行動を選んでいく。

 

この積み重ねによって、「我慢し過ぎ」だけではなく、

トラウマそのものが癒されていくことになると思います。

 

 

子ども時代に親による適切な「協働調整」がなかったとしても、

大人になってから自分で自分を知り、自分の調子を調整していくことを得られた場合には、

適切な養育を受けた場合と同じ成果が認められ、かつ持続できると示されています。

 

 

 

 

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花粉が本格的になってきましたね。

 

花粉症は、頭痛やうつ状態などの原因になるとされ、あなどれないもののようです。

 

花粉症がなくても春は気持ちが不安定になりやすいので、無理せず、

季節の変わり目を楽しめたらいいですね♪

 

 

今日も最後までお付き合いくださってありがとうございました!

 

 

またのお越しをお待ちしておりますm(__)m

 

 

 

 

 

 

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