「トラウマが奪う自分の人生の選択権」について、
今回は取り上げたいと思います。
「自分への厳しさ」という記事と重なる内容がありますが、
選択意識があまり持てていないと「今の環境に耐えて頑張らなくては」となり、
「自分を根性論で叱咤する」となりがちです。
そのため、「自分に厳しい」ことと「自分の人生の選択権が持てていない」ことは深く関連しています。
この記事は「自分の人生に対する選択意識があまり持てていないかもしれない」ということを掘り下げていくので、
気持ちの良い内容ではないかもしれません。
気が進まない方や具合が良くない方はどうかご無理せず、ご自身の具合を何より大事にされてくださいね。
目次
人生の選択権
「人生の選択権」とは、言葉通り「自分の人生は自分で選んでいい」という意識です。
一般的には「就職」や「結婚」などのライフイベントをイメージするかと思います。
ただ、人生を左右するようなライフイベントの選択は、
日々の些細な選択の延長上にあります。
「日々の選択」は、自分で選んでいるかのように感じます。
そうでないと行動につながりませんので、意志をもち、考えることで「自分で選んでいる」と認識します。
ただ、「自分に厳しい」場合や、
周囲に理不尽に責めてくる人がいる場合であると「自分で選んだんでしょ!」等と詰められてしまう経験などを経て、
何もかもを自分のせいにし、選択を変えることも許されず、
「耐える」状況が続いてしまっていることも珍しくありません。
そもそも「自分で選んだ」といえるほどの幅広い選択肢を持てていたのかということは疑問です。
また、仮にそうだとしても「選びなおしてはいけない」などということはありません。
「自分への選択権」が失われていないか、「トラウマの影響」を整理していきたいと思います。
トラウマの影響
「子ども時代に子どもらしくいられなかった」という機能不全家庭に育った場合、
「自分中心に生きた時代」がありません。
幼児期は、泣いたり笑ったり騒いだり、子ども中心に家庭が動くことで、
子どもの自己肯定感が育ち、感情が豊かになり、主体性をもつことができるといわれています。
それはそのまま「人生の選択」につながります。
一方で、常に親の機嫌を伺うなど、家庭が安心できる場ではなかったら、
「自分中心」という感覚は持てなくて当然です。
加えて、「自分の人生は自分以外の他者次第」という感覚を持つでしょう。
また、犯罪被害などのトラウマティックな体験も「選択していい」という人生に対する主体性を奪います。
コントロール外の出来事によって人生が大きく左右されたわけですから、
「基本的信頼感の欠如」の記事で述べたように、
「この世は危険」という世界観になり、
「安全でより良い未来へ向けた選択意識」は奪われてしまいます。
感情面の問題
「人生の選択」において、
「自分は何が楽しくて、何が耐えられなくて、どんな毎日だったらいいのか」
が重要なポイントになるかと思います。
それを教えてくれるものは「感覚」「感情」です。
けれど、「自分への厳しさ」の記事でご説明したように、
長期間に渡って苦しい状況におかれてしまうと
「感情はつらい思いをさせるだけ」と抑圧せざるを得なくなります。
そうなりますと、「自分にとってなにを選ぶべきか」というときに心のサインを拾ってあげることができなくなります。
また、PTSDの症状として「否定的認知」があります。さまざまなことを極端に否定的に捉えるという症状です。
そのような状況ですから「選択」といっても、実際は「選べていない」という状況になっていることが少なくありません。
未来の短縮化
PTSDの症状の1つとして「未来の短縮化」をご説明していますが、
トラウマがなければ数十年先の将来の自分像をイメージできます。
イメージできるということは、「選択」できているということです。
かつ、その「将来」に向かう過程で、以前に抱いた「将来の自分像」を微調整することも可能になります。
けれど、そもそも『未来の短縮化』によって
「まっとうな仕事や家庭を持てる気がしない」「長生きできる気がしない」
という感覚を持っていたら、選べようがありません。
その時その時を生きるだけで精一杯です。
そしてこれは「トラウマの症状」ですから、ご本人の責任ではありません。
けれど、症状の中では目立たないですし、ご本人も「性格だ」と思っていることが多いですから、
どうしても苦しみがそのままになってしまいがちです。
「長生きできる気がしない」「まともな家庭や仕事を持てる気がしない」といった感覚は、
「就職や結婚の選択のときだけに影響する」わけではないですよね。
人は日々、些細なことから「選択の連続」で成り立っています。
「今日は何時に起きる」ということも、
「夜ご飯は○○を食べる」ということも、
とても大事な「選択」です。
けれど、「将来は生きてないだろう」と意識的にも無意識的にも思っていたら、
どうしても、今の自分に対して「どうでもいい」と思ってしまうのではないかと思います。
「どうでもいい」ことに対して、「ちゃんと選ぼう」とは思えなくなるため、
自分に対して優しい行いを自然としなくなっていることが多いです。
積み重ねた「学習」
苦しい思いをされていたら、それは何か理由があるのだと思います。
決して「性格だから」「そういう運命だから」ということではなく、
ご自身のせいではない過去の経験からの学習が、
今の苦しみを生んでしまっていることがあります。
自分の人生を良い方向に「選択する」には、ある程度の気力体力が必要です。
心身共に衰弱していれば、まず休養が必要になります。
選択できないほどに心身のエネルギーが低下してしまう状況について整理します。
学習性無気力
何度も試しても報われない経験を重ねることで、「がんばってもダメなんだ」と「学習」し、
何事に対しても無気力になることを「学習性無気力」といいます。
これは「うつ状態」ととてもよく似ています。
機能不全家庭に育った場合、
大人になって「何も親に言わない」「なにも反抗しない」「人生全般に対して能動性が低い」というケースが見受けられます。
これは「学習性無気力」である可能性が考えられます。
機能不全家庭でなくとも、例えば発達障害を抱えていて学校生活がすごくしんどくて、
頑張っても頑張っても報われなかった場合などにも生じます。
「学習性無気力」を他の言葉に言い換えると
「絶望感を伴った諦め」なのだと思います。
「諦める」ということが「選択の1つ」であった結果であれば、適切なことが多いでしょう。
しかし、他に選択肢を持てていない状態は「選択」ではないということ、
「自分の人生を諦める」ということが、どれほど悲しいことであるか、
世の中の人たちに想像して欲しいと思います。
「希望」を否定された心の傷
「学習性無気力」にも通じますが、劣悪な環境に置かれていても、
その中で何とか前向きに楽しみを見つけながら懸命に生きていることがほとんどです。
ただ、トラウマがあると「あれをやってみたい」「やってみたら楽しくなかった」というような能動的な体験が少なくなります。
それは「基本的信頼感の欠如」によるストレスや疲労の多さや、
自由なチャレンジが許されなかったなど、いくつも要因があると思います。
チャレンジするパワーがない場合はもちろんのこと、
「やってみたいな」と思ったことが親など外的要因によって叶わなかったらとても傷つきます。
「希望をもつ」「期待する」という前向きな気持ちは、
それが叶わなかったとき、深く傷ついてしまうことが少なくありません。
健康な状態であれば、「またチャレンジしよう!」とすぐに立ち直れるでしょう。
しかし、瀕死な状態でなんとか生きている中で、せっかく抱いた「希望」を否定されてしまたったら、
「もう傷つきたくない」と思い、それ以降、何かを望まなくなってしまってもおかしいことではありません。
「希望」や「嬉しい」「楽しい」といった「ポジティブな感情」を否定されてしまうことは、
意識的に目立ちにくいですが、非常に心が傷つくことです。
嬉しいことや楽しいと感じたことに対して、
親などの他者から「喜びの否定」「嘲笑」などの侮蔑が入った対応を受けてしまうと、
羞恥心を伴い、その傷つきは深く心に刻まれてしまいます。
その傷つき体験の結果として、
ポジティブな感情を自分でも否定し抑えることに繋がってしまうことが少なくありません。
ポジティブな感情の否定が、自分を幸せにしてくれる「選択」を阻んでしまっている要因になっている場合があります。
もしそのようなご経験があったら、「とても傷ついたかもしれないね」と、当時のご自身を今から労わって、
「そのとき感じたポジティブな感情は素晴らしかった。否定したほうがおかしい」と、
癒してあげてほしいなと思います。
苦しい選択
「自分の人生は自分で選んでいい」という感覚がトラウマによって失われてしまった場合、
そのほとんどは無自覚であることが多いです。
自分では日々のことを「自分で選んでいる」と思っていることがほとんどです。
もちろん、本当にしっかりとした意志をもって選択していることもあります。
けれど、「自分で選んでいるかのように錯覚してしまっている」ということが多いことも実際です。
分かりやすい例でいうと
「ブラック企業に勤め続ける」
「パートナーからモラハラを受け続ける」
というような環境下に居続けることなどがあげられます。
それらは「再演」などの他のトラウマ反応でも説明ができます。
かつ「選択権のなさ」が同時に関連していると解釈することが可能です。
「耐える」しかない
子どものころから苦しい環境であると、「耐える」ことしか選択肢がありません。
逃げることも他の環境を選ぶこともできません。
なので、劣悪な環境下を生き抜くために、「耐える」理由を無意識に探します。
その代表例が
「自分が悪いから怒られるんだ」
「親の機嫌を悪くしないようにしないと」
「もっとがんばればきっと認めてくれる」
といったように責任を自分に向ける心理作用です。
この「自分が悪いから」という自責的な気持ちは、
子どもだったときは生き抜くために適切だったと思います。
けれど、当然ながら事実ではありません。子どもが悪いわけではありません。
ただ、「当時はそう思うことで耐えられた」のだと思います。
なので、決して「自責的に考えていた自分が悪い」ということではありません。
そう思わないと生きられない環境だったということだと思います。
このような日々を過ごすと、その経験は深く心身に刻まれます。
そのため、大人になって自立できるようになった後でも、
自責的な思考が続いてしまうことが自然であるといえます。
小さい頃とは違い、いろいろな選択肢があると頭では分かっていても、
他のより良い選択肢を「自分には縁がない」「自分は選ぶことができない」と無意識に思っていて、
不当な扱いをされる場であっても「受け入れ、耐える」ことしか選べないことがあります。
「がんばらないと」は能動的だと錯覚する
「嫌々やる」と意識していない限り、
自分の行動は「能動的に行っている」と脳は判断します。
錯覚であっても「能動的に」と判断すれば、「自分で選んでいる」という意識に繋がります。
これは「自分に関することは自分に決定権がある」という
人間がもつ心理の基本原則とも関連していると思います。
人は「自分のことは自分で選んでいる」と思うようにできています。
そうでないと、「認知的不協和」になってしまうので、「協和」が自動的に働くと推測できます。
このような心理原則や脳の判断によって、
「苦しいことに耐える」ことは「選択している」と自分で誤解してしまっていることがあります。
しかも「苦しいことに耐える」ことは、膨大なエネルギーを要します。
膨大なエネルギーを作り出すために、
「自分で選んでいるのだ」と能動的に捉える必要があると推測できます。
もちろん、全てがそうではありません。
しかし、「本当は自分で選んでいるわけではないかもしれない」こともあることを意識できると、
改めて選択できることがあるかもしれないと思います。
「苦しい経験」ほど記憶される
「楽なこと」「嬉しいこと」は、「生存を脅かす要因」でなはないため
生命体として記憶する必要がありません。
しかし、「過酷な状況下を生きる」場合、「生命の危機」が伴いますから、
そのとき生き延びることを可能にした対処法は脳に刻まれやすく、
必要がなくなっても継続してしまっていることがあります。
また、「過酷な状況下を生きる」ためには、何か理由がないと耐えられません。
これは「人は意味のないことに耐えられない」という心理原則によるものです。
「納得できる理由」として「自分がダメだから」「自分ががんばりさえすれば」となり、
ご自身を酷使してしまうことになっていることがあります。
そのために、どうしても「耐える」「我慢する」という対処ばかりが強化されてしまい、
他の対処を取れなくなっていることがあります。
決して、そういったご自身が悪いなんていうことはありません。
言葉ではとても言い表せない、どれだけがんばってきただろうと思います。
しかし、劣悪な環境下によるストレスの原因はご自身ではありません。
そう考えると、返って苦しくなってしまうこともあるかと思います。
ただ、もしかしたら、当時は有効だった対処法が今は苦しいスキルになっていることがあるかもしれません。
たとえそうだとしても、今に至るには理由があり、
そういったご自分を理解し、部分的であっても暖かく優しい目でご自分を見直せるといいなと思います。
対処法
本当に、人生というのは、ご本人が選ぶことができる範囲は、
実際はどの程度なのだろうと考えさせられます。
けれど、苦しんでいたい人はいないと思いますし、
自分の意志ではない部分で生き方が左右されていたとしたら、
少しでもご自分の意志で選んでいけたらと考えています。
「選ぼう」と意識する
この記事で述べている「選択権のなさ」は、
意識できているレベルというよりは無意識的に失われてしまっている部分です。
そのため、「選んでいい」と意識することがまず大事であると思います。
自分では「選んでいる」と思っている事柄に対しても
改めて「そうすることを自分は選ぶ?」とご自身と対話してみて欲しいと思います。
選択肢を考えてみる
「選ぶ」には「選択肢」があるはずです。
無理や不可能と思えることであっても選択肢にあげてみて、
そこから考えて選んでみようとする試みを繰り返すことが大切かと思います。
今まで選んできたことや好んできたことと違うことを選べということではありません。
同じことでも改めて「これを選ぶ」と意識してみてほしいなと思います。
これは、「仕事を辞めるか続けるか」といったような重いことから始めなくて大丈夫です。
まずは「お昼ごはん何を食べよう?」から考えてみる。
スーパーやコンビニに行って、
ぜひ「選ぶこと」を楽しんでみてほしいと思います。
日ごろから、選んでいると思います。
けれど、今一度、意識して「選んでいい」と思いながら、
「何を買おうか」とご自身に聞きながら「選択」の実感を積み重ねていきたいと思います。
注意ポイント
ただ、「選ぶ」には「思考力」が必要です。
そのため、うつ病など極めてエネルギーが低下した状態ですと決断ができません。
そういった特別な状態では、「決められない」ことが症状の1つになりますので、
そのときは選ぼうとせずに、ご自身の状態が良くないという気づきにつなげて、
医療機関の受診などを検討して欲しいと思います。
「止めること」も選択
選択肢の中には「止める」という選択がほとんどの場合にあるのではないかと思います。
先ほどのスーパーやコンビニでの買い物の例でも「買わない」という選択肢がありますよね。
どうしても「何をするか」「何を始めるか」という方向が好ましいように思ってしまいますが、
まず「何を止めようか」という視点で「選択」してみることは、
選択権を取り戻していく上でとても重要な視点ではないかと思います。
これに関しても「仕事を辞める辞めない」といった大きなことから始めなくていいと思います。
例えば「休日に予定を入れることを止めてみる」でもいいですし、
「無理に笑顔を作ることを止める」でもいいですし、
「間食を止める」などの模範的な試みもありますよね。
いずれにしても、
自分の人生、自分で選んでいい
という感覚を意識して、ぜひ楽しんで試みられたらと思います。
ポジティブな感覚への注目
先ほどの「昼食の買い物」の例のような、
気軽でポジティブな内容で試みることができると、
ポジティブな感情の発見や強化に繋がります。
「苦しい状況に耐える」というスキルが強化されている場合、
「嬉しい」「楽しい」といったポジティブな感情は希薄で、
日ごろは注目しない状態になっていることが少なくありません。
場合によっては罪悪感を感じてしまうため、
「喜んだり楽したりすることは悪いこと」と思ってしまっていることもあります。
でも決して悪いことではないですよね。
むしろ、ポジティブな感情は自分を良い方向に導いてくれる欠かせない感情です。
なので、
「ちょっと楽になれそうなことは何だろう」
「どっちを選んだら少し嬉しくなれるかな?」
等と、ポジティブな気持ちに選択の基準をおいて関心を向けてあげると、
負担も少なく繰り返していけるかもしれません。
トラウマがあると、症状を含めて、あらゆることがコントロールできずに苦しい思いを重ねていることが少なくないと思います。
そういった「コントロールできない」「選択できない」部分も、人生には多分に存在していることは事実だと思います。
けれど、全てが選べないわけではないのだろうと思います。
目の前の「些細」なことからで充分だと思います。
「好きなカフェにいく」「コーヒーを丁寧に淹れる」「ストレッチをする」などなど、
ご自分が楽しめる「選択」を意識していけると、
きっとそれはその後の人生に大きな影響をもたらしてくれるのではないかと思っています。
↓「押す」という「選択」をどうかお願いいたします!!
「押すか」「押さないか」という選択の試みとしてぜひ!!
↑いつもめんどうな一押しを本当にありがとうございます!!
みなさまのこの一押しを励みにブログを頑張れています!!
今回の記事と関連する「自分への厳しさ」に関する心理についてもご興味があればぜひ!
トラウマの影響を述べている「基本的信頼感の欠如」の記事もご興味があればぜひ。
最後までお読みくださって本当にありがとうございましたm(__)m
10月になり、気圧や気温の変化が大きくなっていますので、みなさまどうか、いつも以上にお体大事にされてください。
またのお越しを心待ちにしております♪