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傷つく言葉 呪いの言葉

なぜ「許しましょう」と言われ続けるのか ~批判的観点から~

 

ツイッターを見ていると定期的に「許しましょう」という内容を見るので、

今回は寝子の独り言的に「なぜ“許せ許せ”と言われるのか」について、綴ろうと思います。

 

この記事は「“許しましょう”という提言」に対して批判的な立場で書いていきます。

 

そのため、「許すことが良い」と信じられている方は読まずにスルーしてくださいね。

 

また、本来は「許す許さない」なんて他人が口を出すことではありませんで、

気持ちを明白にしていらっしゃる方も読まない方が不快にならないかなと思います。

 

ということで、気が向いた方だけお付き合いくださると嬉しいです!

 

「許す」という状態って?

私は、心理士としても個人としても、ずっと前から「許す」という心情がどういう状態なのか、

未だによく分からないのです…。

 

これは皮肉ではなく、「許す」って「なかったことにする」みたいな印象を抱いているのか、

どこか上から目線のように感じるからか、

「許す」と言う以上はその前は戦っていた(対等だった)というイメージが生じるからか…

自問自答しています。

 

一番感じるのは、「許す」というのは「上から下に対して」あるいは「対等な関係で」得られる選択肢であると思っていて、

「下から上へ」「弱者から強者へ」という方向では「許す」という選択権は持っていない気がします。

 

なので、「子どもから親へ」「被害者が加害者に対して」という構図で「許す」を考えると、

「そもそもそういう次元ではないのではないか」と思うなどしています。

 

とにかく「許す」という心境で説明できる人間関係の心の傷を負うほどの出来事がそう頻繁にあるのだろうか、

と「許す」という表現は馴染まないというのが正直な気持ちです。

 

定義は?

「許しましょう」という数多くの発信が意味している「許している状態」とはどんな状態でしょうか?

 

「許しましょう」より叫ばれていることが多い「自己肯定感を上げましょう」の「自己肯定感」とはなんでしょうか?

 

たぶん、それぞれバラバラな説明になると思います。

なぜなら、学術的には確固とした定義づけがないのだから。

 

「許す」の場合も、「どうでもよくなること」と考えていることもあれば、

「仲良くなること」あるいは「もうその件を持ち出さないこと」といったように、

それぞれによって捉え方は違っているのではないかと思います。

 

どの捉え方が適切かということではなくて、仮に「許す」としてもその中身はそれぞれで異なるのだから、

「許しましょう」という促しは、意味のあることを言っているようで言っていないのですよね。

 

なので、やはり「許しましょうキャンペーン」はあまりに雑な一般化であると感じます。

 

そして、「自己肯定感」と同じく、「許す」という状態は実は不明瞭であるために、

悩んでいる側は更に混乱してしまうこともあると思います。

 

 

苦しんでいるときって正解を求めるものです。

自分がやっていることが正しいか間違っているか、指針が欲しくなるものです。

 

そういうときに、「雑な答え」は有害になることが少なくないと感じています。

 

こだわりは悪?

心理学的に誤解を生じさせてしまっているなと感じることに

「こだわりは良くない」「グレーをもつのが良い」というものがあると思います。

 

これは「認知療法」の「認知の歪み」が一般の人たちにもかなり広まったことで生じた誤解だと思っています。

 

さらにいうと、一般の人たちのみならず、医師や心理士の中にも「白黒はよくない」「グレーを持ちましょう」「こだわりは和らげた方がいい」とやたら勧めるやり方が流行ってしまった時期があった気がしています。

 

もう15年前くらいになりますかね。。

 

その名残もあるのか、「こだわりを持っているのはよくない」と捉えられてしまっていることがあります。

 

「許さない」も「こだわり」の最上級といえるかと思いますので、

「許せないのは好ましくない」と誤解を生んでしまっているところがあると思います。

 

 

けれども!!

 

 

そもそも「こだわり」は何も悪くありません

 

例えば、好きなファッションや食べ物、映画や歌、香りやインテリア、

さらには「家族との時間を優先する」等といった「好きな事柄」に対して、

人それぞれ「こだわり」がありますよね?

 

その「こだわり」はその人らしさであり、

大事なことだから「こだわらない」わけにはいかないのだと思います。

 

なので、認知療法が言っている「不適応的思考」としての「こだわり」とは、

「自分にとって大事ではないことにもこだわる」であったり「“こだわり”そのものに苦しめられている」であったりした場合に、

「変えたほうが少し生きやすくなるかも」ということであって、

変えなくてもいいし、その全てが「認知の歪み」なんかでは決してありません。

 

 

ということで、「許せなくてもいいし、許す許さないは自分で選んでいい」という主張をさせていただいたところで、

 

なぜ「許しましょう」と大合唱されるのか

 

という発信側の要因についての自論を好き勝手に述べたいと思います!

 

宗教とは?

「許しましょう」という提言は、最近生まれたものではなく

はるか昔から流れ続けている「思考」ですよね。

その歴史の中には、宗教も密接に関連していると思います。

 

私は、宗教っていうのは極論すると、今よりもはるかに世界が貧しくて理不尽な君主制だった時代に、

人々がなんとか我慢して生き抜くために生まれたのだと考えています。

 

例えば江戸時代の日本とか、通りすがりに大名に切られて殺されるのが普通とか、今じゃあり得ないじゃないですか。

 

それでも生きるしかなかった。

 

だから「輪廻転生」と唱えて「現世ではなく来世のために現世は模範的な振る舞いをしよう」としたのかな~、とか

 

様々な理不尽も「許すことこそ美しい」と思い込む(思い込ませる)ことで、

実際に幸せになれたこともあったのかなと思ったりします。

 

人は理由のないツラさに耐えられないし、見通しがもてない、答えがないと、さらにストレスが倍増してしまいますからね…。

 

誰のため?

「許しましょう」というメッセージは同時に

「相手を許すことは自分のため」

「親を許すことは自分を許すこと」

というようなフレーズがセットで謳われることが多いです。

 

まさに「相手のためではなく自分のためですよ」

 

まるで「あなたのことを思って!」と叫ぶ毒親のように、「許せなさ」を抱える個人に「あなた自身のためだ」と迫っていることがほとんどです。

 

「あなたのことを思って!」と叫ぶ毒親に反論することが容易ではないのと同じように、

このように言われると、悩んでいればいるほど一旦は「そうなのかな…」と取り入れようとすることはおかしいことではないと思います。

 

 

ただ、本当に「あなたのため」なのでしょうか?

 

 

「許しましょう精神」は、太古の昔は個人の精神的安寧や身体的な安全にも寄与したと思います。

それでも、根本的には、「許しましょう」というのは、

「許せなさ」を抱えている個人のためではないと私は考えています。

 

まして、現代では、なおさらに「個人のため」ではないと私は思っています。

 

社会の安定のため

「許しましょう」に限らず、

 

「因果応報」

「苦労は買ってでもしろ」

「涙の数だけ強くなれる(あ、これは歌か)」などなど、

 

昔からこういう「言い伝え」がたくさんあるんですけど、それらの「言い伝え」が誰にとって都合がいいかと考えると

 

 

社会の安定のため

 

 

だと思います。広くキレイにいうと。

 

 

理不尽な苦しみに、もっともらしい理由をつけて耐えさせれば、文句や反乱が起きずに社会は安定します。

 

理不尽に命を奪われても「天国に行った」「来世ではレベルアップできる」と思えば、なんとか納得できたのかもしれません。

 

どんなに不当な扱いを受けても「許す」ことができたら、「徳の高い人」と思えて支えられたのかもしれません。

 

大事なことは、「許せなさ」を抱えるであろう「その人個人」のためではなく、

「社会の安定のため」に提唱され続けているのではないかということです。

 

この「社会の安定のための洗脳」が、そのうち「我慢してきた自分を否定されないため」といったような前時代のややこしい嫉妬心も連れてきて、

世代間で受け継がれてしまっているという側面も関連していると思います。

 

周囲の人が疲れないため

1年半前にツイッターの炎上案件で私がブログに書いたときの発信者の主張が「許しましょう」でした。

 

このときも同じことが言えると思うのですが、

「許しましょう」と促す側が「許せなさを抱える個人に向き合うのが疲れる(めんどくさい)」という真意によるものが身近では意外と多いような気がします。

 

 

「対応するのがめんどくさいから“許した方があなたのため”とまるで相手のためかのように諭す」

 

 

というものです。

 

これも言っている側は「自分が受け止められないから」とは気付いていないことがほとんどなので、

気付いていなければ無自覚で攻撃性を含んで発せられる可能性が高まるため、

言われたほうは「責められている」ように感じますし、

「許せない自分はダメだと人からは思われるのだ」と受け取ってしまうことが多いのではないかと思います…。

 

「許しましょう」側がもつ心理

先ほどの「社会の安定のため」に通じる部分もありますが、

「許せなさ」を抱えている個人の痛みに直面することを無自覚に拒絶しているために

受け手が「許しましょう」等と促すという心理的な作用が考えられます。

 

それは「この世は安全だという思いを脅かされたくない」という認知的不協和を回避しようとするものと、

「二次受傷の回避」として「嫌な思いをしたくない」という感情的な部分という、

いたって単純な「事実の拒絶」が働いていると思われます。

 

別の側面では、発信側の「善意」や「価値観」などが考えられます。

 

本当には「知りたくない」

人は、「家庭は安心できる場所で、住んでいる国は概ね正しいことをしてくれている」と思いたいものです。

 

トラウマがなく、精神疾患や心身症に縁がない人たちは特に「この世は安全」と思っていたいものです。

 

この世に和解できないような事実があるとしたら、それは自分とは遠い世界の話しだと思いたいものです。

 

虐待が実際にどのようなものであるのか、どれだけ不当に扱われている人たちがいるか、知りたくないものです。

 

先ほどの「受け止められないから」という防衛は「知りたくない」となり、

結果として「許しましょう」「いつまでも怒っていても意味がいない」「終わったことは仕方がない」などというような

「個人に問題を押し返す」セリフで強制的に終了しようと作動していることがあると思います。

 

これは、そのように「促す側」が「見たくない」「知りたくない」ためだからです。

 

「この世の不条理に直面するようなストレスを感じたくない」「自分の安全感を脅かされたくない」「だから黙っていろ」等という

あちら側のストレスの軽減のために抑えられていることも大いにあると思います。

 

誰かの痛みに直面するしんどさ

「二次受傷」といって、

「誰かのトラウマティックな体験は聞く側も傷つく」ことが知られています。

 

誰かの痛みに直面するのはそれだけでしんどいものです。

だから、「個人の問題に押し返す」ことは分かりやすい一般的な反応だと思います。

 

問題は、「“受け止める方も傷つく”ということを受け入れられないので苦しんでいる人の問題にりかえる」ことです。

 

一方で、「他者の経験を聞く側も傷つく」としたら、

トラウマを抱える本人はどれほどにツライことでしょうか。。

 

「許せない」思いと向き合っているご本人のしんどさは、他者が答えを言えるような軽いものではないことは想像に難くないですよね。。

 

善意

根本は、先ほどの「“許す”ことを促した側が受け止められないから」に通じますが、

本当に善意で「許した方がいい」と諭していることもあるでしょう。

 

そういう場合はおそらく、その「諭している人」自身が、過去に何か許せないような出来事にあって、

その怒りを抱えているよりは許したことで楽になったという成功体験があるのではないかと思います。

 

しかし、その人の「許せなさ」の過去体験と、今抱えている人の体験とは全く違うものであるはずです。

 

本当に悪気なく、無意識に、

 

「人の話を聞いているようで実際は自分のことしか話していない」

 

という状態は、思っている以上に巷に溢れています。

 

それが悪いということではなく、

他者から言われるアドバイスなんて、そんな程度のものだと

気楽に受け流す方が無難かもしれません。

 

「許した方が人格が優れている」という価値観

これも宗教的な価値観が大いに影響していると思いますが、

「許せる人間の方が許せない人よりも人格が優れている」というような

暗黙のイメージが存在すると思います。

 

先ほども述べたように、このような価値観は、弱者に耐えさせるために普及した側面が多大にあると思っています。

 

人格の評価なんて、できませんよね。

 

「世間体」というような「目に見えない空気」を大事にすればするほど、

不自由で自分や身近な大切な人たちを蔑ろにしてしまう結果を生んでしまう気がします…。

 

「許す許さない」なんてことで、人柄が決められることではないと思いますので、

過度な一般化に傷つくことがありませんように…。

 

「答え」を提示できる

宗教が流行るのは「答えがない事柄に対して明確な答えを提供する」ことが

人を惹きつける要因の1つだと思います。

 

同じように「許しましょう」と「言った側」は、

「皆さまの悩みに答えを持っていますよ」というある種の「教祖的な」存在感、アピールができるのかなと思ったりします。

 

「こっちに歩いていけば迷いませんよ」と。

 

「自分で答えを出す」って、大変な作業なんですよね…。

そして他者がその人なりの答えを出せるまで寄り添うことも、非常に骨が折れることだと思います。

 

だからカウンセリングが存在しているわけですが、短期的には「もっともらしい答え」があるほうに惹かれるのは無理もないと思います。

 

ただ、そういった人の弱みにつけこむことは非難されるべきことだと思います。

 

なぜ「葛藤」するのか

ここからは「許せなさ」を抱える側の話しをしていきたいと思います。

 

この項目は「“許しましょう”と提唱する側」に対してではありませんので、やわらかく書いていきたいと思います。

 

 

そもそも、どうして定期的に「許す許さない」が話題にあがるのでしょうね。

 

それはやはり、「許せなさ」を抱える人が「許せない許したい」という葛藤を抱えているからではないかと思います。

 

「許さない」と決めている人に「許しましょう」という提言は響きませんし、

「もう許した」という場合も結論が出ていれば、大して知らない他者からの「許しましょうキャンペーン」に特になんとも思わないのではないかと思います。

 

そう考えると「許しましょうキャンペーン」に触れて、感情が動く場合には、

「許したいけど許せない」であったり「許さないといけないのだろうか」という迷いであったり、

「葛藤」を抱えているからこそ、引っかかってしまうような気がします。

 

それくらい、「許せない」という気持ちを抱えることはしんどいのですよね。。

 

「怒り」を抱えるのはしんどいから

「許せない」という気持ちの底には「怒り」があることがほとんどです。

 

「怒り」はこのブログでも何度も取り上げているくらい、

大切な感情ですが非常に抱えづらいものです。

 

誰にとっても「抱えづらい」から、

先の「周囲の人たち」や「社会」も抱えようとせずに個人の問題に摺りかえることが多いのではないかと思います。

 

だからどうしても「許せなさ」を強く抱えると、まるでその「怒り」そのものが「悪いもの」であると感じられてもおかしくないですよね。

 

だから「許した方がいいのではないか」と悩むのだろうと思います。

 

ただ、心理療法的な視点から考えると、

その「許せなさが生じさせているように感じる苦しみ」は「トラウマ反応」であるので、

「許そう」とすることに焦点をあてるのはポイントがズレていると考えられると思います。

 

「苦しみを減らしたい」ことが目的であれば、「許す許さない」に焦点を合わせるのではなく、

その「怒り」はかつて「ちゃんと感じることが許されなかったものだ」とまず気付いてあげることだと思います。

 

「強い怒り」が悪いのではなく、「苦しくて仕方がない感情が後からくるほどの傷つく体験をしたんだ」と、

ご自身に寄り添ってあげてほしいと思います。

 

 

詳しい方法は別の記事に譲ります。

「遅れてきた怒りの意味」

「トラウマによる解離を理解する」

 

最も拒絶された感情

一般的にも、「怒るのは良くない」「笑って許そう」というような価値観を

“好ましい”とする風土があります。

 

一般的な風潮があることに加えて、

「許せない自分はダメなのではないか」と深く悩む場合、

幼少期から怒ったり自己主張したりすることが許されず

「いい子」でいることを良しとされてきた環境だったことが少なくありません。

 

このような場合、そう簡単に「許せなくていい」とは思えないですし、

当時の自動反応として「怒り」は「嫌悪」「拒絶感」を連れてきてしまうと思います。

 

でも今は、ご自身で選んでも大丈夫になっているのではないかと思います。

 

もう怒りの抑圧をしなくても危険ではないかもしれません。。

 

簡単ではありませんが、

ぜひ、怒りも「許せなさ」も、好奇心をもって自分の一部として歓迎してあげてほしいなと思います。

 

自分らしさ

前回の『嫉妬心が教えてくれていること』で述べましたが、

 

「許せない自分が嫌!」という場合、

その人は「優しく穏やかにいたい」と思っていて、

「優しく穏やか」でいられる自分に心地よさや安心感を抱いていることがあります。

 

そうであれば、「優しさや穏やかさを大事にして過ごす」ことがきっと「その人らしさ」なのだと思います。

なので、「許せない」ほどの「強い怒り」は居心地が悪く、

「自分らしくない」と拒絶的に働くかもしれません。

 

けれど、感情は振り子ですので、ネガティブな感情も感じられてきたからこそ

その人らしい「優しさ」や「穏やかな時間」が増えている面があるかもしれません。

 

「喜怒哀楽」というように、

 

「怒」だけがご自身を構成しているわけではないと思いますので、

「一部」だと思えると「怒り」も感じやすく受け止めやすいかもしれません。

 

そして「怒」を感じているということは、何か「大切なものを守ろうと臨戦態勢になっている」と捉えられるので、

決して無意味なものではないのだろうと思います。

 

一貫した「ご自身らしさ」の時間を大事にしながら、

ときどき存在を表してくる強い思いも「自分のもの」とできるといいなと思います。

 

 

 

 

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すっかり寒くなりましたが、皆さま体調崩されていませんでしょうか?

 

身体の温かさは心の暖かさにも繋がりますので、ぜひ温かい食べ物や飲み物で身体を暖めてくださいね(●^o^●)

 

 

今日も最後までお付き合いくださっておありがとうございました!

 

またのお越しをお待ちしております♪

 

 

 

 

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