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呪いの言葉 心理雑談

「自業自得」「因果応報」という思考を考える ~本当の「感情」に辿り着くには~

 

今回は「自業自得」「因果応報」という思考が生まれる背景と、

「感情」と「思考」との関係を考えてみたいと思います。

 

私自身は「自業自得」「因果応報」という思考や教えに反発を抱いています。

でも、これはそういった「教え」「偏見」に対しての反発であって、それを抱く人を否定しているわけでは決してありません。

 

私だって思います。

 

そこで、「どうして私は反発心があるのだろう?」ということをスタートに、

「自業自得」「因果応報」という思考の奥の「感情」に思いを馳せてみたいと思います。

 

個人的な思い

私はこの仕事をしていて、理不尽な目に遭い苦しむ方々に接しています。

なので、どうしても「自業自得」「因果応報」という思考には反発を抱いてしまいますし、

事実としても間違った考え方であると思っています。

 

なぜなら、「自業自得」という考え方や「因果応報」という教えは、苦しんでいる人に対する偏見を生み、二次加害となること、

 

加えて、苦しい境遇に置かれている方々も運よく恵まれた環境に置かれた方々も、

ご本人のご自身に対する適切な理解を阻む思考であると思っています。

 

この考え方によって、ツライ思いをされている方は「自分が悪いからだ」と思い、

自分の傷を癒す前に「他者に対して良い振る舞いをする」ことを優先し、

誰かに対して適切な怒りを感じる自由を失い、不自由なままで無理やり自分を納得させてしまう。。。

 

逆に、ただ運が良いだけで恵まれた状況にある人たちは、

苦しんでいる人たちを「自業自得だ」と思うことで、不要な優越感や不理解を生じ、自分を過信し、

誰かを踏みつけていることに気づかないままかもしれない。。

 

だから私は、「自業自得」「因果応報」という思考を、心の底から嫌っています。

 

でも、それは私の気持ちであって、こう思うこと自体が悪いと全否定するつもりはありません。

 

私だって思うことありますしね。

 

そして、何かが起こったときに「自業自得と考える人は偏見がある」なんていう単純なことではないし、

この考えだけで人柄を判断できるものでは決してありません。

 

だから、私自身も嫌っているのにまれに抱いてしまう「自業自得」という思考が起こる心理的背景について、

ちょっと立ち止まって考えを巡らせてみたいなと思いました。

 

「認知的不協和」というストレス

【偏見を生む心理】なぜ「被害者にも落ち度が」と言われるのか という記事や

 

【認知的不協和】「自己否定してしまうのは無理もない!?」 という記事で説明していますが、

 

「自業自得」という心理について考えるときも、

人の心理原則である「認知的に協和しようとする」という作用が強く働くことがまず一番にいえることだと思います。

 

「認知的不協和」とは

「認知的不協和」とは、

「人は既に持っている認識や行動に合わない事柄にストレスを感じる」

という心理作用のことで、

 

自分の既存の認識や行動と、新たに得た情報とのつじつま合わせをする心理作用です。

 

そしてこの作用は、

不協和の程度が大きいほど、不快感は大きくなり、“不協和の状態を解消しろ”という圧力が強くなる

という特徴を持っています。

 

つまり「不協和」は「不協和」のままではいられないことが多いということです。

 

そのため、例えば自分が以前からネガティブに思っていた相手に不幸が生じたとき、

「相手のことは嫌いだけれど、出来事はまさに理不尽である」という認識は「不協和」になります。

 

「認知的不協和」は、「つじつま合わせ」ですので、

一見「筋が通った」ストーリーに仕上げて「協和」しようと作用します。

 

よって「自業自得だ」「因果応報」という帰着になることがあるといえます。

 

「不協和」を「不協和」のまま抱えられる場合は、ある程度余裕があり、健康であるといえるかもしれません。

あるいは、既存の概念が崩壊しない程度の出来事であったことでもあるでしょう。

 

程度の大きさ

先ほど、「認知的不協和」は「不協和の程度が大きいほど、不快感は大きくなり、“不協和の状態を解消しろ”という圧力が強くなる」と述べましたが、

 

この「不協和の程度」とは、事実としての「出来事」と「自分の感情」の2つの側面に関わります。

 

これを簡単に言うと、

「好きな人に良いことがあったら嬉しい」「嫌いな相手に悪いことがあったらざまーみろと思う」という状態を想像したとき、

 

「相手に対する好意や敵意」と「出来事」の程度によって、私たちが受ける衝撃の程度は変わりますよね。

 

小さい出来事であったり、好意の程度がそれほどでもなければ、さほど揺れずに済むかもしれません。

 

でも、好意や敵意が強い上に、起こった出来事の内容がショッキングな事件であったら、人は無意識に瞬時に「協和」しようとするでしょう。

 

ただこのような場合、「協和」の働きは他の人たちの反応にも繋がってしまうことが多いですよね。

 

この「協和」は、「既存の知識」が関連して出されます。

 

「認知的不協和」の「協和」は、「無意識にして一瞬に」が基本となりますので、

「新しく考えて」ではないこともポイントの1つかもしれません。

 

そのため、以前から考えていたこととそのときの「不快感」あるいは「好意」「敵意」を構成している「思考」が「つじつま合わせ」に一役買っていることが多々あります。

 

この「前からの考えとのつじつま合わせ」によって、より強固な「協和」を自分に作るのだと思います。

 

感情の抑圧

「感情」を理解する際にも「認知的不協和」は関わってきます。

 

ただ、この項目では、何かのショッキングな出来事あったときに「自業自得」「因果応報」と考えた場合の立場にたって

その奥にある純粋な感情に思いを巡らせてみたいと思います。

 

ショックだった

まずシンプルに「驚き」が強かったら、「驚き」は「動揺」になりますから、

心身はなんとかそれを平静にしようと「驚くほどのことではない」と修正した結果

「自業自得」と納得させることがあるでしょう。

 

加えて、初期反応は「闘争か逃走か」と言われているように「泣くか怒るか」というような単純な形で出ることが多くなるでしょう。

 

ただ、本当はただ「驚いた」というだけの段階であることもあるのではないかと思います。

 

「悲しくない」

感情は自由です。

 

でも、自分の感情を不健康に縛ってしまう「苦しい思考」の代表の1つに、

「誰かのことを嫌ってはいけない」「怒りはよくない」等というものがあります。

 

あともう1つ

 

「誰かに不幸なことが起きたら悲しまないと人格が疑われる

 

この考えや雰囲気も、自分の感情を正しくキャッチすることを妨害します。

 

「誰のことも等しく同じ感情」であるわけないですよね。

すごく大事な人に不幸がおきたときと、全く関わりがなかった人に不幸がおきたとときとでは、ショックの程度は異なって当然です。

 

「悲しむか悲しまないか」は自由です。

それは自分でコントロールできるものでもありません。

 

ただ、「人の不幸は悲しむべき」という昔から流れている風潮によって、

「悲しみを感じていない自分」への言い訳を作った結果として「自業自得だから」「因果応報だ」となることがあるように思います。

 

ただ、もしかしたら「悲しくない」「酷いと感じない」という最初の自分の声を正確に拾ってあげられると、

その後に思考や感情がこじれてしまうことを防ぐことができ、もっと自分を理解できるようになるのかもしれないなと思ったりします。

 

「感情」と「思考」の関連

「自業自得」「因果応報」に注意したいのは、自分自身にブーメランになってしまうということです。

 

また、もし、出来事の程度がショッキングであって、ご自身の感情的にも衝撃が強かったなら、

「自業自得」という思考によって一瞬は落ち着かせたようにした感情が、

その後また別の感情を連れてきて、グルグルどんどん負の感情に巻き込まれてしまうことがあります。

 

なので、ここで「感情」と「思考」について少し整理したいと思います。

 

感情の動き

感情は流れていくものです。

その内容や強さは変わっていきます。

 

人の心の健康を考えたとき、「最初の感情に気づくこと」が重要であるといわれています。

 

例えば、「職場で嫌なことがあってイライラして過食してしまった。過食したことに落ち込んで自分が嫌になった」

 

という場合、

 

最終的な感情は「落ち込み」であったり「自己嫌悪感」であったり、

最初がなんであったか分からなくなっていることが少なくありません。

 

そうすると、本当の傷がわからなくなって癒せず、同じことを繰り返してしまうことがあります。

 

なので、「そもそものきっかけはなんであったのか。そのときに自分の最初の反応はどうであったのだろう」と

一度立ち止まって考えることが大切だといわています。

 

先ほどの例ですと、「職場の嫌なこと」とはなんであったのか、

 

「同僚が仕事をしてくれない」ことにイライラしたのか、

それとも上司が「これくらい文句言わずにやれ」という態度をとったことが自分にとって「がんばってない」等と言われたような気がして傷ついたのか…。。

 

これを繰り返し検討できていくと、その後の「過食→自己嫌悪」という負の連鎖を防ぐことに繋がります。

 

最初、どうであったか

ある出来事によって喚起された感情はなんであったか

ということが把握できると、その後の感情がこじれずに済むのではないかと思います。

 

「自業自得」という「思考」

先ほど触れたように、感情は変化します。

 

大雑把にいえば、初期の感情は「センサー」といえ、「身体反応」とも言えるでしょう。

その最初の「センサー」が「思考」によって「次の感情」を連れてきます。

 

例えば、この記事で述べている「ショッキングな出来事」が他者に起きた場合、

「センサー」として「驚き」なのか「怒り」なのか「特に何も思わない」なのか、何らかの反応があると思います。

 

それに対し、思考で「自業自得」と結論づけたとしたら、次の感情は変わっていきます。

 

これは「自業自得」に限らず、

「思考」によって「感情」が決定づけられることは『認知療法』で有名ですよね。

 

「センサー」としての反応の次の「思考」が「自業自得」であると、場合によっては「怒り」を再燃させるでしょう。

 

また別のケースによっては「喪失の否認」になるかもしれません。

あるいは「異なる意見を持つ者への攻撃」になることもあるでしょう。

 

なので、苦しく抱えづらい気持ちが大きくなってしまい、

そもそもなんであったのか見えなくなっていってしまうことがあるかもしれません。。

 

適切な対処

いろいろ書いてしまいましたが、冒頭に述べたように、何かショッキングな出来事に際して、

「自業自得」「因果応報」という思考も含めて、

いろいろな思いを抱くことや、それを言葉にすることは決して悪いことなんかじゃないと思います。

 

人は、そういった出来事に対して自分がどう感じるか考えるかということで、

自分を知っていけるし、ストレスの解消に繋げていたり、対処法を身につけていくのだと思います。

 

なので、ほとんどは「適切な対処」で、この記事のように深く考える必要はないのかもしれません。

 

ただもし、ショッキングな出来事に際したときにご自身の動揺が長引いたり、落ちつかない心理状態になっていたりしたら、

 

一番最初はどう感じたのだろう

 

と少し戻ってご自身に思いを馳せてあげられると、少し整理ができるかもしれません。

 

実は・・・

あまり重く終わるのもなんだかな…と思うので、

 

ここで軽くオチをつけたいと思います!

 

人の心理の基本的傾向として

 

「自分に起きたことは外的要因に帰属する。他人に起きたことはその人の要因だと思う」

 

という基本的な作用があります。

 

なので、途中で「自業自得はブーメランになる」と書きましたが、そこまで深く考えずとも、

ある程度は一般的な反応なのだろうと思います。

 

また、この逆で「自分のことは自己責任。他者のことは寛容」というケースも多々あるかと思います。

 

概して、やっぱり「認知的不協和」で説明できてしまうので、人の気持ちは複雑なのか単純なのか不思議なものですね…。

 

 

ただ、できるだけ「単純」なうちに手当てできたらと思っています。

 

 

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私はそれが仕事なので、いろいろ小難しく考えてしまいますが(苦笑)、

そもそももっとゆったり構えられればなんだって大丈夫なのかもしれませんね(雑っ

 

いろいろ書いておいてなんですか、たまには考え過ぎず(どの口が言うw

 

ぼーぉっと過ごして思考を休ませる時間も大事かもしれないですね(^^ゞ

 

 

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今日も最後までお付き合いくださってありがとうございました!

 

 

またのお越しをお待ちしております♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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