今回は、人の基本的な心理原則である「認知的不協和」について解説したいと思います。
既に、ツイッターや「偏見」の記事で述べていますが、
「認知的不協和」を改めて詳しく理解したいと思います。
「認知的不協和」という概念は、心理学の基本中の基本で、大学の学部で習うことです。
大学院では話題に上がらないくらい基礎中の基礎です。
でも、「認知的不協和をもっと取り上げてほしい!」と個人的に思っています。
私は、「認知的不協和」という心理原則は、人のあらゆる心理や行動に影響を与えていると考えています。
よく「認知の歪み」や「自己肯定感」等が取り上げられますが、その前に、
ぜひこの「認知的不協和」は把握しておきたい心の動きです。
認知的不協和とは?
認知的不協和とは、「人は既に持っている認識や行動に合わない事柄に不快感を感じる」という心理作用のことで、
フェスティンガーが提唱しました。
そしてその「不快感」はストレスになるため、
不快感を軽減するために認識を一致させられるような理由を作り出したり、合わない認識を過小に受け止めようとします。
自分の既存の認識や行動と、新たに得た情報とのつじつま合わせをする心理作用です。
「不協和」はそれを軽減させようと圧力を起こす
「認知的不協和」の理論のポイントの1つ目は、
「不協和はストレス反応として認識されるため、ストレス反応を除去するために“不協和の状態を改善しろ”という圧力を心に生じさせる」という点です。
そして「複数の(多くは2つ)概念が不協和であった場合、どちらか一方を変化させれば不協和は解消される」としています。
「不協和」の程度が大きいほど、圧力は増す
2つ目のポイントは、
「不協和の程度が大きいほど、不快感は大きくなり、“不協和の状態を解消しろ”という圧力が強くなる」という点です。
つまり「不協和」は「不協和」のままではいられないことが多いということです。
具体的には
「既存の概念や行動と合わない認識が入ると不協和になり協和しようと作用する」とは、
具体的にどのような場面なのか、いくつか具体例を挙げて理解していきたいと思います。
「既存の概念」を「認識1」とし、「認識1に合わない新しい概念」を「認識2」とします。
この両者の溝をどうやって人は合わせようとするのでしょうか。
喫煙と健康被害
認知的不協和の説明では、喫煙の例が有名なのでここでも取り上げます。
【喫煙者「認識1」】が、【喫煙の健康被害「認識2」】を知る
自分が行っている「喫煙」が「健康を害する」という状態は自分の中に矛盾を感じます。
そこで、「認識1」あるいは「認識2」のどちらかを変更するか、
あるいは、不協和を軽減させる「新たな説明」を加えます。
パターン1.「認識1」を変える
自分の行動「喫煙」を「禁煙する」に変化させると
「喫煙は健康を害する」という認識に一致することができます。
パターン2.「認識2」を変える
「認識2:喫煙は健康を害する」を「タバコを吸っていても長生きしている人もいる」という見方をとります。
そうすることで「認識1:タバコを吸う」という行動と矛盾が解消されます。
パターン3.「新たな見解」を増やす
「喫煙はストレスの解消になる」「交通事故での死亡率の方が高い」など、
「認識1」と「認識2」との間で整合性が取れるような「既存の思考や行動への正当な理由」を取り入れます。
そしてこれらは「不協和が大きいほど矛盾を解消するよう圧力が働く」ために、
「喫煙」が必要な人ほど「認識2」の方を変えようとするといえます。
喫煙と自己肯定感
ある研究結果で、
「非喫煙者と喫煙者の自己肯定感を比較した結果、喫煙者の方が非喫煙者より自己肯定感が低い」というデータが出ています。
「自己肯定感が低いと、自分の健康を大事にしようと思わないからだろう」と考察されています。
これも「認知的不協和理論」で説明できますよね。
自分を大事に思っていなければ、健康被害が起きるという行動をしていたとしても、「不協和」になりません。
矛盾していないので変化は起きないと説明できると思います。
対人関係においては
対人関係の例では、「Aさんは親切」という「認識1」があったとします。
次に「Aさんに酷いことを言われた」という「認識2」が入ったとします。
これは、Aさんに関わる認識の不協和を生みます。
そこで、「協和」しようと「認識1」を変えると「Aさんは嫌な人だったんだな」となったりします。
「認識2」を変えると「酷いことを言われたわけではない。自分が悪く受け取ってしまっているだけだ。Aさんは親切で指摘してくれたのだ」と「認識1」に合わせようとするかもしれません。
あるいは、「整合性が取れそうな捉え方を取り入れる」と「Aさんは親切な人だけど、今日は何か嫌な事でもあったのかな」と考え直すことで、
「認識1」と「認識2」の矛盾を緩和しようとします。
自尊心が高いと
他にも、「あの人はプライドが高いから失敗を認めない」というように、
「自分は能力がある」と思っている人が「失敗」という既存の認識とズレる行動結果をもたらした場合、
自分の非を認めずに他の要因のせいにするという現象も認知的不協和の1つといえます。
人生に及ぼす具体的場面
私が「しつこいわ!」と思われそうでも、
「慣れ」が及ぼす影響を繰り返しているのは、この「認知的不協和」という心理原則の上に立っています。
「慣れ」は、思考においても行動においても、強固な「既存の認識」になります。
それが自分にとって適切なものであれば何の心配もいりません。不適切な認識には「不協和」を感じ、それを軽減するように働くことは健全な反応です。
しかし、既存の認識が、不適切で不当なものであったらどうでしょうか。
そしてそれが長年に渡って知らず知らず心を占めていたとしたら、いきなり「自分を好きに」と言われても、できなくて当然です。
そのことに強い抵抗を感じたとしても、それは「不協和が大きいほど不快に感じる」という心理原則であり、なにもおかしいことではありません。
先日記事にした「成功恐怖」のベースになっているのは「認知的不協和」であると捉えられるところがあります。
「成功恐怖」の記事と重なるところがありますが、
「自分を苦しい方向に向けてしまう」という具体的場面を上げ、認知的不協和の観点から理解していきます。
自己否定されてきたとき
「成功恐怖」の記事と重なりますが、
生育歴で自分の存在を否定されると「自分は否定される存在」「価値のない人間なのだから不当な扱いを受けることは身の丈に合っている」という認知になり得ます。
そのため、自分を大事にするような行動や安全な環境に対して、既存の認識との不協和を感じ、それを軽減しようと慣れた「苦しい状態」に戻ることがあります。
「成功恐怖」の記事で書いた「慣れない状態に感じる不安」は、「認知的不協和」による不快感と理解することができます。
DVやパワハラなどの被害のときに
継続的な被害に関しては、さきほどの「自己否定という既存の認識に行動と思考が合わせる」という「協和」が起きてしまって、
理不尽な扱いから逃げられないということがあります。
また別のケースでは、例えば、
「夫からモラハラ被害を受けているけれどここまで頑張ったのだから今さら離婚なんてしたら今までの苦労の意味がなくなる」というような気持ちは、
「認識1:婚姻を継続してきた」という自分で選んだ行動に対し「認識2:離婚する」ということは、
かなり大きな矛盾を抱えるために、そう簡単に決断できないということもあります。
好意や不信
これは恋愛や詐欺などの被害にも見受けられると思いますが、
誰かに好意を抱くと、その人の言動のほとんどを好意的に受け取るようになります。
そのため、好意や信頼を持っていない場合には簡単に気付くような違和感も「きっと勘違いだ」とこちらの受け止め方を変えたり、
「あんな良い人が言うことだから本当なのだろう」と安易に信用したりすることがあります。
逆にいえば、自分を信用していなければ、
自分の思うこと行うこと全般に対して常に疑いを持つということになります。
「望まない環境にいる」ときに
「環境が大事」と言われる理由の1つが、
「認知的不協和」の心理原則からみると、
「劣悪な環境にいる状態で、自分を肯定するのはかなりの不協和になるためできない」ということがあります。
どんなにがんばっていても、どんなに自分で自分を支えようとしても、
日々継続的に粗末な扱いをされていれば、自己否定的になり、自分を守れなくなっても当然なのです。
「好きではない人とパートナー関係を続けている」「嫌いな会社に勤め続けている」と「自分を肯定」できなくなります。
ここには大きな矛盾が生じているからです。
自分を大切にするには最低でも不当な扱いはされずに尊重される環境に居ないと、
「認知的不協和」による不快感を抱くゆえ、自己否定を強めることになります。
対処法
他の記事でも繰り返していて恐縮ですが、有効な対処はやはり何よりも「気付くこと」だと思っています。
気付かないと選べませんし、気付かないと癒せませんし、報われません。
自分の気持ちや考えは、自分で意識的に作っている面よりも、
実際は無意識の防御反応であったり、生命体としての生存本能であったり、原則に従った反応が多いのかもしれません。
だとしたら、その原理原則を知ることは自分を理解し大切にすることに繋がります。
そして、「自己否定的状況に根本的には慣れることはない」のです。
それは、「人は健康でいようとする」という生物としての生存本能が根底にあるからです。
そのため、それよりも上のレベルで「理不尽への慣れ」が生じ、「適切な環境への不協和」が起きて「協和」し続けていると、
根本的には「大不協和」が続くことになり、それが病気として現れるといった形になることがあります。
この点のことを「報酬と動機づけ」の記事でも説明していますので、ご興味があればぜひ!
メカニズムに気付く
「認知的不協和」は、意識よりも無意識的瞬間的に「協和しよう」と圧がかかります。
そのため、実際には「認知的不協和」によるストレスを抱えるよりも、はるかに強いストレスがあったとしても、
「認知的不協和」を軽減することが無自覚に優先されていることが多々あります。
なので、気付くことでストレス対処の優先順位を意識して変えられるかもしれません。
あるいは、一時立ち止まって検討することができるようになれるかもしれません。
矛盾したまま歩いていく
「早く解消しないと!」と焦らせる「不協和」は、どうしても心の矛盾を解消しようと動きます。
けれど、これまで述べたように、それは既存の認識や行動が自分には不適切であったときにさらに不幸を招いてしまうことになります。
そのため、まず気付くこと。
気付いたら、「矛盾を抱えたまま」日々を過ごしていくことが「ベストな対処」であることがあります。
環境が大事
ただ、もちろん「健全な方向に一致」させられたらベストです。
また、何か突発的な「不協和」であれば、多少無理に一致させたりそのまま不協和を抱えたりしてもやり過ごせるかと思います。
けれど、「毎日」であったり「継続的」な「不協和」というのは、抱え続けることは非常に難しいです。
パワハラ被害に長期的にあって、それでも自己肯定感を保てているケースは稀であることを考えると理解できるかと思います。
なので、環境は大事です。
自分をないがしろに扱うような環境からはできるだけ離れたほうがいい。。
「認知的不協和」を恐れない
そもそも「認知的不協和」の「不協和状態」が悪いわけではないのです。
ただ、瞬間的に不快感を生じさせるということ。
「不協和」のまま、心において置けるなら、それは「メンタルが強い」といえるのかもしれないと個人的には考えています。
自分についても、一足飛びに全て肯定できなくていいと思います。逆に、全てを否定することもないのです。
「認知的不協和」は、「その差が大きいと圧力も強く」なります。
なので、まず「差が小さいことから」不協和に慣れ、よりご自身に合った方向に徐々に埋めていけるといいと思います。
先の「Aさんは親切」という例でいうと、「Aさんは親切でもあり傷つけてもくる人」というように、それぞれを別々に分けて把握できたらいいなと思っています。
DVでも同じです。「本当は優しい人」ではありません。
優しいところもあるのでしょう。でも同時に、DVという犯罪行為を行う人でもあるのです。
「認知の歪み」で有名な「白か黒か思考」も、ベースは認知的不協和状態を完全に協和しようとする思考と解釈することもできます。
今までの自分を労わって
大事なことは、もし「自己肯定できない」「成功恐怖のように自らを不幸な方向に置いてしまう」としたら、
それは人の心理原則で当然の反応であり、それほどに極めて厳しい環境下で生きてきたということだと思います。
もし誰かから褒められたりして不快感を覚えたら、「認知的不協和」を思い出してほしいなと思います。
「褒められたこと」が事実と違うということではないかもしれません。
自分にとって本来は嬉しいことや適切な状態に対してモヤモヤしてしまうことがあったら「不協和ちゃん」とでも名づけて、
存在を知れれば、その後の行動はおのずと変化していけると思っています。
人は、自分を誤解していたり、意識できないところでコントロールされていたりします。
「気付く」「知る」ことは、変える以上に重要であると私は考えています。
「できないこと」や「思考」「苦しさ」には、それなりの理由があるのだと思います。
例えそれが「歪み」や「過剰」「足りなさ」等とされても、その奥には意志とは違うかもしれないけれどそれなりのワケがある。
だから責めずに、正しく理解できたらと思います。
モヤモヤしてしまう自分を責めず、でも得られた新しい認識も否定せずにいられたら、
新たな「慣れ」が生まれてくるかもしれないなと思っています。
↓押してくださると寝子が「自己肯定」に不協和を感じないほど慣れます!!
いつも貴重な一押しを本当にありがとうございます!!
押してくださった方に除湿機を抱えてお持ちしたいほど感謝しています!
「偏見」についても「認知的不協和」の観点から解説しています。
ご興味があれば「偏見を生む心理」についてもぜひ。
「認知的不協和」がベースとなっている場合がある「成功恐怖」の記事も再確認にぜひ。
「報酬と動機づけ」に関する「認知的不協和」の記事もございます。こちら
今日も最後までお読みくださってありがとうございましたm(__)m
またのお越しをお待ちしております♪