「自己肯定感」「自尊心」「自己愛」など、
「自分を大切に」という文脈で使用される言葉はいくつかありますよね。
でも、「自己肯定感と自尊心って何が違うの?」「自己愛は、強すぎると自分勝手というイメージ」等と
疑問に思うことも少なくないと思います。
そこで今回は、「自己肯定感」「自尊心」「自己愛」を取り上げて、
私の解釈を述べたいと思います。
明白な定義がない
まず前提として、「自己肯定感」「自尊心」「自己愛」というものは、
学術的に確固たる定義づけがなされていません。
なので、みなさまもいろいろな説明を見聞きしているのではないかと思います。
例えば、「自己肯定感」については、
「自分を好きになること」と聞いたこともあるし「自分のダメなところもオッケーとすること」等とも聞いたことがあるのではないでしょうか。
「自尊心」も「自己愛」も学術的には同じことがいえて、揺るぎない定義づけがないために、
個々それぞれで解釈に違いがでる微妙な概念です。
そのため、今回の記事は、あくまでも寝子の解釈となります。
重なるニュアンス
「自己肯定感」「自尊心」「自己愛」は、明確な線引きはできないと思います。
それは、それぞれに同じニュアンスが含まれているからです。
3つとも、「自分をないがしろにしない」という「自分に対する見方」は共通して含まれていると思います。
そのうち、「良いところも悪いところも認めて受容する」というニュアンスが強い概念が「自己肯定感」、
「自分は尊重されて良い存在だ」という意味合いが強い概念が「自尊心」、
「自分は特別な存在」というニュアンスが強い概念が「自己愛」だと、私は捉えています。
注意ポイント
冒頭に述べたように、私の解釈が絶対ではありません。
専門家それぞれでも解釈は微妙に異なっています。あくまでもご参考までに…。
この3つの概念をより詳しく掘り下げていきます。
「自尊心」とは
「自尊心」は、「自分はないがしろにされて良い存在ではない」という、
いわゆる「プライド」を感じさせる言葉だと思います。
「自尊心」は、何らかの被害に遭った場合などの不当な扱いをされたときに、極めて重要になると考えています。
私は他のブログの記事で「自分を守る自尊心がない」という表現や「一度ちゃんと被害者にならないと蹂躙された尊厳は取り戻せない」等の表現をしていますが、
「自尊心」とは、他者によって傷つけられる可能性があり、
傷つけられたら取り戻さないといけない重要な支えであると考えています。
「プライド」というとあまり良くないイメージもありますが、
「まっとうに生きる権利がある」というプライドを持っているか持っていないかで、だいぶ変わってくると思います。
不当な扱いを受けた場合「それは不当である」と認識し、何らかの対処をしようとしてくれるのは「自尊心」だと思います。
「プライド」は高すぎるとややこしくなり、返って人生の障害になってしまうことがあります。
けれど、ご自身の基本的人権を守る程度には、「自尊心」というプライドをちゃんと持っていることは健全に生きることを下支えすると思います。
「自己愛」とは
「自己愛」とは、程度が少なければ「自分が好き」、程度が多いと「自分は特別」というイメージです。
「自尊心」や「自己肯定感」にも、少なからず「自分が好き」という部分は含まれると思います。
ただ、「自己愛」の場合は、「他者と比べて自分が好き」「他者より自分が特別」という
「誰かとの比較」の意味合いが濃い状態だと捉えています。
「自分」を考えるときに、「自分が楽しいから」「自分が嫌だから」という視点より「Aさんよりがんばっているのに評価されない」とか「Bさんよりも自分は稼いでいるから有能なのだ」といったイメージです。
なので、自己愛が過剰すぎると内心は苦しくなると思いますし、他者も巻き込んで厄介な人になってしまいますよね。
「自己愛」が強い場合の臨床像
自己愛が強い場合、必ずしも、偉そうで自信満々とは限りません。
「私なんて…」と自己憐憫するパターンもたくさんあります。
誰かを見下し「勝ったほうが強いのだ」みたいな白黒思考を言い切ってパワハラするようなパターンと、
社会に出ると自己愛がつぶされるので引きこもってしまうパターンや、
「私なんて…」と誰かと比べ続けて不運を呪うようになってしまうパターンもあります。
「自分は誰よりも尊重されるべき存在なのだ」という意味合いでは、「自尊心」と重なるところがあると思います。
いずれにしても、程度問題で、「自尊心」も「自己愛」も、ほどほどには人が健康で生きる上で必要だと思います。
ただ、度が過ぎると毒となってしまう危険な面を含んでいると思います。
「自己肯定感」とは
「自己肯定感」は、最も話題に上がりますよね。
それぞれで内容が微妙に異なっていることも含めて興味深い概念なのだと思います。
私は「自己肯定感」の記事で書いたように、
自己肯定感とは、「自分のその時その時の感情を肯定できること」だと捉えています。
「自分を好きになること」だとは私は捉えていません。
ただ、自分のその場その場の感覚を否定せずに肯定するという作業は、自分を好きになることに繋がることでもあります。
そういう意味では、やはり「自尊心」や「自己愛」と重なる部分はあると思います。
ただ、「自己肯定感」が「自尊心」や「自己愛」とは根本的なニュアンスが違うと感じられる点は
「他者との比較がない」ということかなと思います。
いろいろな専門家や発信者の方々が「自己肯定感とは○○である」と提唱していますが、
その中で「誰かと比べて」という意味のことは見受けられないのではないでしょうか。
なので、「自己肯定感」というのは、
あくまでも「自分で自分を」という「できるだけ他者と比較しない」という視点を大事にしている概念だという気がします。
他者比較
ただ、「他者と比較しない」ことを全面的に良しとすることはないと思います。
「自己肯定感」の概念はそうであると思いますが、人は他者と共に生きています。
その中で、誰かと比べることはおかしなことではありませんし、
そもそも人は他人と自分を比べてそれぞれの理解を深めていく生き物です。
比べなかったとしても、他者との優しい関わりの連続で「自己肯定感」も育まれると思います。
また、「自尊心」「自己愛」が「自分に対するプラスの気持ち」に焦点が当たっている概念であるのに対し、
「自己肯定感」は「好きじゃない自分やダメなところ」についても含んでいると思います。
そして、「自尊心」や「自己愛」が「度が過ぎると毒になる」という程度に気をつける必要がある気持ちに対して、
「自己肯定感」は「いくらでも毒にならない」という特徴をもっている気がします。
詳細な定義づけはそれぞれ異なりますが、先ほどの私の解釈「その時その時の自分の感情を肯定すること」に関しても、やればやるほど良いです。
これは、「感情のままに行動しろ」ということではありません。
「嫌だな」と思ったら「嫌だと思っちゃダメだ」等と否定しないで、一旦は自分の気持ちを認めるということです。
私の解釈に限らずとも、例えば「失敗しても“まぁいいか”と自分をヨシとできること」という解釈についても、
「度が過ぎると危険」にはならず、やればやるほど自分に対する優しい対処となるでしょう。
こういったことから「自己肯定感」はダントツに取り上げられ、魅力がある言葉なのだと感じます。
ご自分なりの「自己肯定感」を見つけてみることもとても意義深いことだと思います。
「自己肯定感」を意識しなくてもいい
今回はあえてそれぞれの概念を整理してみました。
ただ、私は個人的には「自己肯定感とかどうでもいい」と考えているタイプです。
本当に自分に自信がない場合、本当に自己肯定感がない場合、
「自己肯定感を持ちましょう」と言われると、返って追い詰められてしまうような気持ちになってしまったり、
「自分を好きに」というニュアンスに嫌悪感を抱いてしまったりするケースが少なくありません。
「自己肯定感を高めましょう」「自信を持ちましょう」というフレーズにモヤモヤしてしまうことがあっても、おかしいことではありません。
直接的に「自己肯定感」に取り組まなければどうにもならないこともありません。
そんなときは、「自己肯定感」とか「自己愛」とかは気にしなくていいと思います。
そのような場合は、自分の内面を見ようとするよりも、
外部に目を向けて、好きな音楽や本や芸術、食べ物、色や香りなどなど、
ご自身が少しでも心が惹かれて、楽しかったり癒されたりする事柄に触れる時間を大切にできるといいなと思います。
そうしているうちに、気がついたら必要な「自己肯定感」が身についているということに繋がるかと思います。
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↑「人と比較しない」といっても、人との関わりは大事ですよね!
寝子に皆さまの「一押し」という優しさをくださって、本当にありがとうございます!!
最後までお読みくださってありがとうございましたm(__)m
次回は「自分への思いやり」という『セルフ・コンパッション』についてご紹介しています。
「自己肯定の上手なやり方」のヒントになるかと思いますので、
ご興味があればぜひ!
またのお越しをお待ちしております!