今回は、エピソードの続きではなく、
大学院に入って本格的に勉強する中で、
自分自身に欠けている能力があるのだと直面したというお話です。
これは、学術的にはっきりと「トラウマを持った人の特徴」として掲げるほどのデータはないようですが、
一定数には認められるようです。
投影法検査
大学院に入ると、各心理検査や各心理療法を一通り学び、実践します。
もちろん、大学院の勉強だけでは実地ではできませんので、卒業後もトレーニングが必要です。
ただ、今までは教科書で見るだけだったり、簡単な質問紙検査をやる程度だったことが、
最初から最後まで実施して解釈してレポートする、というアセスメントの一連の流れをたくさんの検査で行います。
その中に、有名な『ロールシャッハ・テスト』もありました。
ロールシャッハは、その実施と解釈にかなりの労力とスキルが必要となるテストとして有名です。
ロールシャッハ・テスト
ご存知の方も多いと思いますが、ロールシャッハ・テストとは、
左右対称のインクのしみを見せて「何に見えるか?」と問うことで
心の状態やパーソナリティを査定する投影法です。
「はい・いいえ」で答える質問紙法に比べて、
答えを歪めることができないこと、無意識が反映されるなどを特徴にしています。
大学院の勉強方法というのは、院生同士で検査し合ってやっていきます。
ロールシャッハ・テストもそうであったので、それぞれが検査者や被検査者になってやっていきました。
もちろん大学院に入る前から私は「ロールシャッハ・テスト」を知っていました。なので、特に何も考えず、取り組み始めました。
ところが、いざ自分の前に図版が出され、「何に見えますか?」と聞かれて考えると、
何にも見えなかったのです。
これは、その時の私には衝撃でした。
こんなインクのしみ、そりゃ何かに見えるだろう、そう思っていたし、他の同級生たちは嬉々として次々に答えているのです。
その場は、なんとなく頭に残っていた「答え」を返答し、
「疲れててあまり浮かばない」等とやる気のないふりをして何とかしのいだことを覚えています。
解釈
「ロールシャッハ・テストに何も答えられなかった」と言うと、
その道の人たちは「心理的防衛が強すぎるのだろう」等と分析されるかもしれません。
しかし、「防衛ではない」と当時から思いましたし、
今も「防衛ではなく、本当に何も見えない。何かに見える能力がないのだ」と私は認識しています。
箱庭・コラージュ
「ロールシャッハ・テスト」で内心衝撃を受けながら、他のさまざまな検査や療法に触れていく中で、
なんとなく、「できない」ことは「ある分野」に限られていることに気づいていきます。
「ロールシャッハ・テスト」の次に、
「全く何も浮かばない。できない」状態になったことが「箱庭」でした。
もちろん「箱庭」も知っていたし、特に興味は持っていなかったけれど、
「やろうと思えば私だって普通に小さなオモチャたちを並べられる」と思っていました、何の疑いもなく。
ところが、いざ、箱庭を目の前に「好きに作っていいよ」と言われると、「ロールシャッハ・テスト」と同じく、
本当に全く何も浮かばず、何も置こうと思わず、何もできなかったのです。
ただ、「箱庭」は、やりたい数名が立候補して代表として作って、それを皆で眺めたり評価したりするという進め方だったので、
私はひっそりと「普通」にたたずんでやり過ごしました。
立候補した同級生たちが作った箱庭は、たくさんの置物が置かれ、可愛かったり少し怖かったり、とてもエネルギーを感じました。
内心「こんな風に作れるなんてすごいなぁ」と、自分にはない能力を持っている同級生に感心したものです。
同じように「コラージュ」も全くダメでした。
コラージュとは、雑誌の切抜きなどを画用紙に貼っていく芸術療法の1つです。
ただ、コラージュは、現場での使用頻度があまりないこともあり、さらっとした授業だったので、
私は小さい切抜きを指定の用紙の右上・左上・真ん中・右下・左下の5箇所に貼って終わりました。
それを見た先生が「疲れているのかもしれませんね」と言って去っていったことが思い出です。
WAIS
「ロールシャッハ・テスト」も「箱庭」「コラージュ」も芸術性のある「想像力を要する分野」です。
「箱庭」のころには、「私は言語的な分野以外はできないのだ」と気づいていました。
そしてそのことに「どうしてだろう?」と謎を深めていました。
それを決定づけたのが「WAIS」です。
WAIS
WAISとは、ウェクスラー式知能検査の成人用です。
子ども用のWISCと並んで、
現在の教育現場や医療現場など広範に使用されている有用な知能検査になります。
WAISも、他の検査と同じように、最初から最後まで実施して解釈してレポート提出する作業をしました。
いつものように自分が被験者にもなったのですが、
私の結果は「動作性に比べて言語性が有意に高い」ものでした。
逆にいうと、「言語性に比べて動作性が有意に低い」ということですね。
知能検査は改訂される
WAISをご存知の方のために、少し専門的な話になりますが、
私が大学院生だったころは、まだ「WAIS-R」でした。
直後に「WAIS-Ⅲ」が出版され、現在は「WAIS-Ⅳ」になっています。
もし、「WAIS-Ⅳ」で私の知能をはかったら、もっと正確な結果が得られただろうと思います。
ただ、当時は「全IQ」以外に「言語性」と「動作性」しかなく、
「言語理解」「知覚統合」「作動記憶」「処理速度」という指標得点がまだなかったのです。
知能検査は、改定されたバージョンがその時代の最も正しいものといえます。
なので、「WAIS-Ⅳ」で受けられた方は、「言語性」「動作性」という用語自体がないと思いますが、
それが最新版ですので、「言語性」「動作性」という言葉に混乱されませんように…。
私の結果に戻ります。
私は、「動作性」の検査は手ごたえとしてはそれなりにできていると思っていたのです。
しかし、結果は、「有意な差」。
つまり、非常に簡単にいうと「言語力は高いけれど、非言語的な能力は低い」ということになります。
「非言語的な能力」とは、まさに「ロールシャッハ」や「箱庭」などで必要になる
想像力、空間認知能力、視覚的情報処理能力、作業能力などになります。
WAISの結果を見て、自分が方向音痴であったり、何もないところでよく転んだりする理由がわかりました。
学会で答えを得た
「私は非言語的な能力がとても低いのだ」と分かったけれども、
それにしても「全く何にも見えない(ロールシャッハ)」「何も作れない(箱庭)」というのは
あまりにも程度が重いと思っていました。
しかも、いろいろな教科書を読んでも、「全くできない」ということに対する見解は書かれていませんでした。
モヤモヤを抱えたまま、大学院1年の秋に、初めて学会に参加しました。
そこで何気なく受けた講座で
「子どものころに虐待を受けると、脳が“その映像を思い出さないように”として、
動作性の発達が抑えられ、それを補うために言語性が発達する」
という見解を知りました。
私は虐待ではなかったけれど、子どものころに被害にあっていたので、
「ああ、そうなんだ」ととても納得できました。
それ以上、自分ができないことに対して不必要に追求する気持ちもなくなりました。
誰かの理解に
私は「動作性」の能力が低く、その原因はトラウマだろうと捉えています。
けれども、トラウマを抱えた人皆がそうであるわけではありません。
動作性が高い人もたくさんいらっしゃいます。
ただ、自分が苦手なこと、できないことが
「がんばればできるはず」「努力が足りないからだ」ということではないと思います。
また、「できないこと」「苦手なこと」が、
必ずしもご自身にとって負の側面だけをもたらしているわけでもないかもしれません。
私は動作性の低さによって、絵が描けないし、不器用だし、方向音痴だし、よく転ぶし、日常生活にまぁまぁ困ります。
非言語性の能力というのは、生きる上でけっこう重要なんですよね。
でも、代わりに言語性は得意です。
だから本などもあっという間に読み終えることができます(←さほど役に立たんw
何より、脳が発達する前の段階で「嫌な記憶を思いださせないようにしよう」と試みてくれたのであったら、
「生存本能よ、ありがとう」であって、
決して責めることではないなと思っています。
精神医学の進歩
現在は「発達性トラウマ」「複雑性PTSD」などの概念が広がっています。
今まで「先天的」とされてきた発達障害も、後天的な影響を含める方向になっています。
ただ、状態の複雑さゆえに、どうしても曖昧さを含む概念でもあり、
今の段階では、個々それぞれが納得できて自分を整理できる見解を心理士として提供していきたいと個人的には考えています。
けれど、「名前がつく」「状態にある程度の一般性がある」ということは、人の助けになりますよね。
だから、できるだけたくさんの「見解」を示し、
そのどれか1つでもどなたかの腑に落ちる「自分への理解」になれたらいいなと思っています。
↓「あ~はいはい、また押せと」と思ったあなた様!!常連様!!!
寝子を理解してくださっていて、本当にありがとうございます!!
↑「言語性が得意」ということをブログでも発揮していきたいです!!
次回は「兄への憎しみ」という現在の苦しみについて綴っています。
今日も最後までお付き合いくださってありがとうございました!
またのお越しをお待ちしております♪