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性被害サバイバーの1事例

ある性被害サバイバーの話45 ~母の死と臨床心理士試験~

2021年10月22日

 

母が亡くなってもう10年以上も経ちます。

 

「ある性被害サバイバーの話」で、

きちんと時系列で書いていきたいと思っていたのですが、

大学院に対する気持ちの整理と消化ができていないために「大学院入学時」で止まっておりまして(苦笑)

 

ふと「今のことをリアルタイムでブログに書きたい」と思ったときに、

「母は亡くなっており、今は居ない」ということに触れておかないと書きにくいな、

ということで、飛びますが「母の死と臨床心理士試験」についての記事になりました。

 

母の闘病

母は、私が29歳のときに亡くなりました。

その4年前に「ガン」がわかり、一通りの治療を受けていました。

 

乳がんでしたが、発見が遅かったこともあり、

「5年生存率は50%」と言われました。

 

それでも4年間は、抗がん剤や放射線治療、外科的手術などの標準治療を全て行い、

一時期はガンが小さくなったこともありました。

 

しかし、私が大学院を卒業して臨床心理士試験を控えた秋に、

起き上がろうとしたら骨折し、そのまま入院しました。

 

前兆

その前から母の容態はおかしくなっていました。

歩くこともままならなくなり、手でドアを開けられないなど力がはいらなくなっていました。

 

原因は「ガンの骨への転移」であったことが、骨折後の入院でわかります。

 

当時の私

大学院卒業直後の私は、半年後(10月)に臨床心理士試験を控えながら、

心理士としてなんとか見つけた職場で働いており、職場の環境はストレスフルでした。

そして私自身、新人そのもので不安や緊張が強かったです。

 

そのような中で、闘病中の母が家にいるということは、

正直なところ、だんだんとかなり負担になっていきました。

 

バリアフリーなどでもなんでもない、古くてもともと生活しにくい家の中で、

母に対して簡単ではあるものの介護的なサポートをしなくてはいけない…。

 

そんな中で、私の臨床心理士試験の直前に、母の「ガンの転移」が告げられました。

 

勉強していたのか

あの頃、仕事のストレスも多大で、大学院からの受験の妨害などもあり、

母のこともあり、とにかくストレスフルだった気がします。

 

それでも、異常な大学院から離れられたこと、仕事もだんだんと軌道に乗ったこともあり、

悪いことばかりではありませんでした。

 

ただ、臨床心理士試験の勉強をしていたのかと振り返ると、

「いつしていたのだろう?」と思うくらい、あまり記憶がありません。

 

母が入院してからは病院と勤務先の往復でした。

 

でも、当時「青本」と呼ばれていた「臨床心理士試験対策テキスト」という鉄板の受験対策本を

仕事の行き帰りの電車の中で読んでいた記憶があります。

 

臨床心理士試験

臨床心理士試験は一次試験が筆記で、

二次試験が面接です。

 

私は筆記試験に受かる自信がありませんでした。

 

受験に際し、「卒業証明書」などの必要書類を出してもらわなくてはいけない大学院側から「受けるな」などという意味不明な嫌がらせもありました。

 

勉強できていなかったし、

「落ちたらまたあの大学院に必要書類を人質に取られて嫌がらせされるのか」と暗澹たる気持ちになっていましたが、

とにかく元気がなく、ポジティブな結果を想像することができませんでした。

 

 

 

でも、一次試験、受かった。

 

 

 

一次試験に合格したときの光景は鮮明に覚えています。

 

当日は、仕事で夜に帰宅。結果は郵送で送られてきていて、

「不合格を見たらご飯が食べられなくなるだろうから、開ける前に夕飯を食べてしまおう」と黙って食べ、

その後封を開けました。

 

開けてみたら地図と日付が書いてあって、

「合格」も「不合格」も記載なく、「ん??」とじっと紙を見ていたら、

紙を持っている指がこすれ、もう1枚あることが分かり、

そこに「一次試験合格。二次試験の日時と場所の案内」と書かれていました。

 

 

ものすごく嬉しかったです。

 

 

 

そして、臨床心理士試験は二次試験に進みます。

 

母の余命宣告

同時に、母の骨へのガンの転移がわかり、

「余命3ヶ月」と告げられました。

 

私の臨床心理士試験の一次試験の直前だったと思います。

 

私は、当時は、今よりもはるかに原家族に対する感情は整理されておらず、気づいてもいなかったです。

 

「母の余命宣告」は当然ながら、非常にショックでした。

 

そして同時に、私にとっては自分の命より大事である「臨床心理士になる」という夢を目前にして、

緊張や不安が強まっているときに、

 

なぜこの家族は邪魔をするのだ

 

という、誰のせいでもない原家族と自分との相性の悪さを強く感じました。

 

臨床心理士試験と丸かぶり

私の二次試験が終わった後に、母は緩和ケア病棟に入院しました。

そこからは、家族でかわるがわる病院に泊まって、

病院と仕事の往復になりました。

 

 

母が入院後、二次試験の結果が出て、合格しました。

 

私は臨床心理士になることができました。

 

15年

中学の被害から15年です。

しかも大学院浪人を3年もしていました。

精神疾患を代表としたあらゆる苦しみを支えたのは「臨床心理士になる」という夢でした。

10代20代の全てを費やし、どんな思いでここまできたか。

 

私にとっては、ものすごく重大なことです。

 

それを、心から喜ぶこともさせてもらえないことへ、

当時は強い怒りを感じていました。

 

 

家族は当然、母のことで手一杯ですから私の合格などには構えない状態でした。

でも、私は、私の合格を家族に祝って欲しいなど思っていませんでした。

 

 

彼らに祝ってもらおうと思っていたわけではありません。

原家族の反応など、どうでもいい。

 

そうではなく、私自身が、母のことで14歳からの夢の実現を味わえないことに対して、

非常に強い怒りと憎しみを原家族に抱きました。

 

私自身が、合格を心から喜び、自分を労いたいのに、この15年間の頑張りを振り返りたいのに、

「母の余命が3ヶ月」ということに心が占められてしまう…。

 

やり場のない怒りを感じていたことを覚えています。

 

誰のせいでもない、私と原家族との相性の悪さを痛感しました。

 

そしてそれは、「私はこの人たちが嫌いなのだ」という再認識にもなりました。

 

嫌いでも、そう簡単に心から居なくなってくれないのが家族でもありますね…。

 

 

臨床心理士に12月に合格し、3ヵ月後の3月に、母は亡くなりました。

 

 

母との最期

私と母は、最期まで分かり合うことなく

むしろ心の距離はもっと離れて見送りました。

 

今も、母との軋轢が私の中には残っています。

 

母が亡くなった後で、母は私より兄を愛していたし、

私のことは可愛くなかったのだろうことが、いろいろと表に出てきます。

 

誰かの死に際し、それを美化するような風潮があります。

それは悪いことじゃないですし、亡くなった人のためにも残された人のためにも、

「分かり合って、最後は良い思い出に」と思う気持ちは痛いほどわかります。

 

でも、そうはできないことも実際は多いですよね。。

 

そういうケースもあっていいのだと思います。

 

現実

私は当時、母のことで仕事に支障が出る可能性があったので、職場の上の人にあらかじめ事情を話していました。

そうすると、年配の上の人たちが「最後は“ありがとう”って言って旅立つから」とか

「親はどんな状態になっても生きていてほしいよね」とか言っていたのですけど、

 

…なに言ってんだろうう??

お花畑か???

 

と、当時から思っていました。

 

実際、母の場合は、そんなドラマみたいな状態にはならなかったどころか、

亡くなった後にさらに後味が悪くなるようなことを周囲が曝露してくるという、

なかなかドロドロしたものでした。

 

 

私のケースは、聞いて気持ちの良いものではないと思います。

 

でも、複雑な感情を抱えて苦しむのは私だけではないと思いますし、

なかなか表立って言えない心情だからこそ、書きたいなと思っていました。

 

 

優しさだけで埋められないこともある。

 

 

私だって、心優しく穏やかに母に接したかったです。

まして、亡くなった後に、母が私を貶めて兄を絶賛していたことなど、聞きたくはありませんでした。

 

でも、そういうことをわざわざ言ってくる人が存在するのもこの世ですし、

親に対して「最期はわかりあって」あるいは「いなくなってせいせいした」といった、

はっきりと白黒つけられる感情だけではないことはありますよね。

 

最期まで期待しても叶わず、優しくしたい気持ちと悔しい気持ち、

亡くなった後でまで、負の感情を掻き立てる事実の直面など、

なんとも言いがたい複雑な気持ちを抱えていることも、少なくないと思います。

 

夢が叶った

私にとって、「臨床心理士になる」という夢は、

本当に人生の全てでした。

 

後に「臨床心理士になることは想像以上のゴールだった」と実感していきます。

 

今振り返ると、あの当時、母の病気や大学院の理不尽な妨害行為、給与の支払いもきちんと行われない勤務先など、

なんであんなに試練が立て続いたのだろうと不思議です。

 

当時、夜になってから母の病院を出て、

冬の寒空の下、病院の周りをグルグル歩きながら「合格したんだな」

あえてかみ締めるようにしていたことを覚えています。

 

気持ちの消化ができていない

「人生で一番つらかった時期は?」と聞かれたら、

「幼少期か大学時代のPTSDやうつ病を発症した時期」と答えると思います。

 

でも、大学院時代の2年間と、

卒業後の心理士1年目の仕事や臨床心理士試験、母が亡くなるまでの1年間の、合わせて3年間は、

トラウマの苦しみとはまた質の違う苦しみでした。

 

あの3年間は、なぜ、あんなに傷つき消耗することが次々起きたのかと不思議です。

 

その後臨床心理士になって、私の世界はまるで変わりました。

私にとっては「臨床心理士になる」ということが、「治療」だったのかもしれません。

 

そのことで、暗黒の3年間のことは振り返らずに済みました。

 

だから、今でも心の整理と消化ができていません。。

 

過去の性被害は、トラウマとなり精神疾患を発症したために、

その過程で消化や整理がなされていたのだろうと思います。

 

今思い出して心が痛むのは、性被害のことではなく、大学院からの3年間の方です。

 

しかし、私の人生を変えたのはトラウマであり、

生活ができないほど長い年月、苦しんだのもトラウマです。

 

「大学院からの3年間」は、思い出すと今でも痛いけれど、

私の人生にさほどの影響をしていないし、トラウマにはなっていません。

 

 

傷の深さではなく消化の問題なのですかね。。

 

人の心は不思議です。

 

 

 

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本当は、もっと丁寧に振り返りたかったのですが、

一つの区切りとしてざっとまとめました。

 

アイキャッチの「ゴールテープを切ってるネコ」は、

「臨床心理士に合格した記事のときに使うんだ!」と思っていたので、

「母の死」にはそぐわないけれど使わせていただきました。

 

これより以前のことを、戻る形で「ある性被害サバイバーの話」として書いたり、

一般化できそうなエピソードを書いたりまたしていきたいと思っています。

 

合格後の3ヶ月と、母が亡くなった後の、母とのエピソードもいつか書ければと思います。

 

「ある性被害サバイバーの話」を最初からお読みいただくときはこちら

前回のお話はこちら

大学院時代の概要はこちら

 

 

ぐっと寒くなり、日が短くなるこの時期は物悲しくなることがありますが、

どうか心もお体大事にされてくださいね。

温かいものを食べたり息抜きしたりしながらやっていけたらと思います。

 

 

今日も最後までお付き合いくださってありがとうございました!!

 

またのお越しをお待ちしておりますm(__)m

 

 

 

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