向精神薬を大量に服薬すると、沈静化されるというより、
理性による抑止力が取れてしまいます。
そのため、おかしな行動を繰り返していました。
寝る前に多量服薬したあと、食べ物を自転車で買いに出かけたり、
当時は交流がない人や親しくない人たちに電話しまくったり…。
他にもいろいろ影響がでている時に、けいれんを起こして倒れました。
私は意識を失っていたので記憶がありませんが、
家族に後から聞いて、それを一応は主治医に報告すると、大学病院を紹介されました。
回想:大学4年後半
当時、大学4年の後半にかかっている秋頃でした。
もう本当に自分でも「廃人だな」と思っていたし、
家族も手助けはしてくれませんが、影で「寝子は廃人だな」と話していたそうです。
そんなときに大学病院を紹介され、「紹介状」を渡されました。
そのときの私にはそれが「救いの手紙」のように見え、
「この大きい病院に行けばきっと助けてもらえる」と藁にもすがる思いでした。
ところが、その期待はあっさりと砕かれます。
大学病院の主治医は、ろくに話も聞かないし、受容的な態度でもなく、私には全く合いませんでした。
ただ、当時の私の状態を「不眠ノイローゼだね」と言い、
「その歳で薬漬けになるのは嫌でしょう」と、一気に減薬をしました。
私は、処方量では既に眠れなくなって、日々ODしていたので、
この急な減薬で、全く眠れなくなってしまいました。
解説:不眠ノイローゼ
それにしても、当時(今から約20年前)の精神科・心療内科というのは、なんだったのだろう…と改めて思ってしまいますが、
それでも、この大学病院の受診は、変化のきっかけになったと思います。
大学病院の医師より「不眠ノイローゼ」、
「寝る前に“眠れなかったらどうしよう?”って思うでしょ?不眠症から悪化して不眠ノイローゼになっているよ」と言われて、
「確かに!ノイローゼっぽい」と納得しました。
そして、「その歳(まだ若い)で、薬漬けになるのは嫌でしょ?」という医師のコメントも、
内心「そりゃそうだよ」と同意していました。
その医師とは合いませんでしたが、「なんとかしないと」と
薬物依存を治そうと思う気持ちが強くなったと思います。
回想:入院の勧め
ODしていることは言いませんが、当然、ガクンと減らされた処方量で眠れるわけもなく、
新しい主治医は前の主治医よりも苦手だし、状態はよくなりません。
そこで、早々に、医師より「入院しないか」と勧められます。
ただ、当時の私は自傷他害行為を行う危険性は極めて低いと思われる患者だったでしょうから、
あくまでも「勧め」でしたので、すぐに断りました。
解説:依存症の怖さ
私が入院を断ったのは、
「入院したら薬が自由に飲めなくなる」と真っ先に頭に浮かんだからです。
怖いですね…。こういう思考になっていくのが依存症なのだと思います。
治すよりも、依存しやすい環境を選ぶようになってしまう…。
家族は「入院しないと治らない」と思っていたようです。
しかし、あくまで「任意入院」ですから、私が同意しなかったので、立ち消えました。
ただ、その医師は、もしかしたらどこか気づいていたのかもしれないなと思います。
大学病院の精神科への入院というのは、一般にはよほどでないと勧めないかなと。
ODしているかどうかまで察していたかはさておき、処方量がそもそも多剤でしたし、
表情等から、それなりに重い依存状態、あるいはうつ状態であると思っていたのかもしれません。
余談ですが、私も心理士になり、精神科勤務が長くなると、
うつ状態が重いときの表情や、多量服薬しているときの表情など、
分かるようになります。
もちろん決め付けはいけませんので、
こちらから問い詰めるようなことは決してしませんが、
心配にはなりますね。
回想:前の主治医への信頼
入院せず、だからといってこのまま大学病院の主治医のところに通うのは、本当に負担しかないので、
「卒論が忙しくて、遠い大学病院に通えないから、前のクリニックに戻して欲しい」と言い、戻してもらいます。
大学病院の医師とあまりにも合わなかったことで、
「前の主治医は良かったのかも」と、もともとの主治医に対してここでようやく信頼感をもちます(ひねくれ者w)
補足:卒論
当時大学4年でしたが、そのまま卒業はできず留年はほぼ決まっていました。
しかし、4年時に卒論を書く資格はあったので、卒論に取り組み、
「計画発表」「中間発表」「口頭試問」をちゃんとクリアして、なんと卒論を書き上げて単位を取ってるんです。
我ながら、自分を褒めたい…。
大学4年で卒論を書き、その単位は取得できたことで大学5年は精神的負担が軽くなりました。
解説:時期
大学病院の受診は、「薬物依存で落ちるところまで落ちたな」という象徴のように受け止めていたと思います。
だから、もういい加減なんとかしないとマズイと思った。
また、卒論は、けっこうなプレッシャーだったと思います。
私に限らず、毎日学校に通い、当然ながら留年なんてせず、成績優秀な同級生ですら、卒論のプレッシャーで神経症的になっていましたので。
助けられたのは、卒論を評価する教授陣は「その生徒の他の授業の出席日数や成績を知らない」ということでした。
当時の私は、手取り足とり面倒を見られてしまう方が、受け入れられなかった気がします。
大学4年が終わる頃、大学病院の受診が元のクリニックに戻り、卒論が通ります。
留年し、大学5年を迎えます。
↓押してくださると、今後薬物依存から立ち上がるパワーになります!!
大学5年は、立ち上がろうとし始めます。
続きはこちら。向精神薬依存から抜け出そうとします。