今回は、ちょっとした人からの言動を「批判されてしまった…」等と
長らくグルグルと考え続けてしまう心理について、
なぜそうしてしまうのか、整理していきたいと思います。
この記事は「グルグル考えない方法」を述べるものではなく、
「グルグル考えてしまう理由」を検討するものです。
それによって、自己理解の助けになれば幸いです。
目次
環境因
「気にしなければいい」「終わったことは考えても仕方がない」と分かっていても、
他者からのちょっとした批判的な言葉や態度を心の中で長く引きずってしまうことに悩まれている方は少なくありませんよね。
分かっていても、嫌な出来事を反芻してしまうのは、いくつかの要因が考えられます。
そのうちの1つが環境因です。
「不機嫌な人に傷つく心理とは?」の記事と重なる部分がありますが、改めて整理します。
生育環境
自分が子どもである時期の「親」という存在は、圧倒的に上の立場で、
大げさではなく子どもの命を握っています。
そのため、子どもの頃の家庭環境が機能不全であった場合など、
親の機嫌で自分の心身が脅かされる状態が常であると、
「親の顔色を伺う」ことが生命維持のために不可欠になり、
それがいつのまにか習慣化し、「不機嫌さを察知し、機嫌をとる」という対処法が磨かれていき、
気づいたら学校や会社などの外でも行うように「般化」するようになっていることが珍しくありません。
「般化」とは
「般化」とは、心理学で、「始めの刺激と似たような刺激を受けると全般的に同じ反応を起こす」ことをいいます。
臨床的には「トラウマ反応」が「般化」として説明されることが多いです。
例えば、男性から加害を受けたら、加害者本人だけではなく男性全般に恐怖心を抱くようになるなどが代表例です。
「考え続ける」ことの習慣化
家族療法の記事で、
「激しい感情表出をする人が家族メンバーにいると病気になりやすい」と書きましたが、
「攻撃性」というのは、受け手を病気にするほどのダメージを与えます。
もしそれが親であれば、「不機嫌」という攻撃性を日常的に受け、ビクビクしながら過ごすことになります。
そして、その「不機嫌さ」「イライラ」には一貫性がありません。
何が地雷になるかわからないため、「ずっと考え続ける」状態にならざるを得なかったと考えられる場合がほとんどです。
もし大人になってからも「人の不機嫌さや少しの注意が気になってずっと考えてしまう…」としたら、
かつて生きるために必要であった「どうしたら怒られないだろう?」という答えのないテーマを必死に考え続けた習慣が、
今も残っているからかもしれません。
「環境因」の中には、家庭だけでなく学校のクラスや部活動での先生や先輩などが攻撃的であった場合も含まれます。
「挽回しなくては」
このような環境にあると、親や教師や先輩などのキーパーソンに「嫌われたら終わり」です。
圧倒的な上下関係が構築されていますから、「嫌われてもいい」では済まない。
そのため、もしキーパーソンの不機嫌の理由が自分であったなら
「挽回しなくては存在価値がなくなる」というような無意識的な強迫的思考が働いていることがあります。
「挽回する」ためには考えて行動しなければいけません。
そのため、「反芻する」という思考の癖を強化した可能性があります。
「不機嫌な人が気になってしまって自分から機嫌を取りにいってしまう」という行為も、「それが自分の役目」と無意識に根付いていることがあります。
不機嫌な人に振り回されてしまうご本人の心労ははかりしれません。
ただ、その全てが「怯え」や「自己防衛」のみによって起きるものというわけではなく、
その根っこは「みな穏やかにいてほしい」と願う優しさを持っているからだと感じます。
特性
「嫌なことをグルグルと考え続けてしまう」場合、環境因に加えて、
その人の特性が関わっていると考えられます。
「嫌なことを反芻してしまう」という点だけみるとネガティブな特性に感じてしまいますが、
ネガティブなことばかりではないかもしれません。
このような方々に比較的共通する能力を整理します。
記憶力のよさ
「他者から嫌なことを言われたことをいつまでも考え続けてしまう」等ということに悩んでいる場合、
多くは記憶力の良さを備えています。
それは「嫌なこと」に限らず、「エピソード記憶」に秀でた記憶力を持っていらっしゃることが多いです。
エピソード記憶とは
記憶の種類には「意味記憶」「手続き的記憶」などいくつかありますが、
「エピソード記憶」とは、「誰がいつ何をした」といった日常の出来事や過去の思い出の記憶をいいます。
少し思い返してみると、自分はしっかり覚えているのに他の人は忘れていて「なんでそれを忘れるの?」と思われた経験はないでしょうか?
ご自身は「この前、Aさんが○○してBさんが返答してCさんに伝えることになったじゃん」とはっきりと覚えている。
一方で、周りを見渡すと、当事者のAさんやBさんでさえ、そのことを忘れているというような状況。
「嫌なことの反芻」に悩む場合、エピソード記憶力に優れていて、嫌なこと以外もしっかり覚えていることが多く、
仕事や対人関係で信頼を得られていることが少なくありません。
もちろん、「嫌なことを忘れられない」ということは苦しみであり、記憶力の良さが必ずしもポジティブに作用するとは限りません。
それでも、嫌なことだけでなく、他のことも記憶できる能力がある、
ということはご自身を助けてくれている面もあるのかもしれないと思います。
攻撃性の低さ
「嫌なことを反芻してしまう」原因のもう1つには、
「それを自分の中以外で解消しない」ということが考えられます。
例えば、何とか反芻を止めるために、その原因を作った相手に直接問いただしたり、「自分は傷ついたんだ」等とぶつけたり、あるいは謝罪をしたり、そういった直接対決をするという対応もあります。
けれど、「嫌なことの反芻」に悩む場合、多くは、
自分ひとりの中で考え続け、表には出さない傾向が見受けられます。
顔や態度には出さず、表面的には笑顔でいつもと同じように過ごされている。でも外から見えない心はツライ思いを抱えている…。
これは、「攻撃性のなさ」が関連していると思われます。
「攻撃性」というのは全て悪いわけではなく、自分自身を守るために必要でもあります。
自己肯定感があると、自然に身を守るベールのようなものを備えられているような気がします。
一方で、自己否定感が強いと、身を守る盾がない、つまり嫌なことを跳ね返せないので心にストレートに入ってしまう。
基本的に他者より「自分が悪い」と思う思考傾向があること、
誰かを傷つけてまで自分のストレスを解消しようとしないという優しさによって、
「外には出さずに一人で傷つきを抱える」ということになっていることが多いように思います。
傷ついている
先ほど触れたように、「嫌なことを反芻してしまう」場合、そもそも「ご自身は傷ついた」のだと思います。
「反芻」してしまうことでより傷ついてしまうこともあるかもしれません。
けれど、「気にしなければいい」のに、そうはできない以上、「心にひっかかった」ことは間違いないのではないかと思います。
なので、その「傷つき」や「引っかかり」は、ご自身が感じたこととしてちゃんと拾いたいなと思います。
自分の行いを後で考えすぎる場合
少し話がそれますが、「嫌なことを反芻してしまう」ことと似た現象に、
「その時は楽しかったのに後で「騒ぎすぎただろか」等と自分の行いが不適切だったのではないかと考えて落ち込んでしまう」というケースも少なくありません。
この場合も考えてみたいと思います。
躁的状態からうつ状態に
二日酔いの症状の1つに「精神的な落ちこみ」があります。
これは自然な反応で、お酒を飲まなくとも、「とても楽しかった」という気持ちになった場合、反動で翌日などに「気持ちが落ち込む」という心理作用が働くと言われています。
そのため、「ただ楽しかっただけなのに、どうしてか“自分は失礼なことを言っていたのではないか”等と考えてしまう場合は、
「楽しかった反動として少しうつ的になっている」という自然な反応として受け止めてあげてもいいかもしれません。
罪悪感
「楽しかった時間が終わった後に自分の行いを振り返って落ち込む」場合、
自分が楽しむことに慣れていないという可能性があります。
加えて、「自分が楽しむ」ことそのものに罪悪感を無意識的にも感じてしまっていて、
「自分は楽しむのではなくもっと周囲に気を遣わなければいけない」という呪いのような厳しさをいつの間にか背負っているのかもしれません。
この場合であると、「すごく周囲に気を遣った。全然楽しくなかった。」という場合には、その後で自身の行いを過剰に批判的に振り返ることは少ないように見受けられます。
もしそうであれば、「楽しかった後の自己批判的反芻」は、本来は感じなくていい罪悪感から発生しているのかもしれません。
相手への違和感
「純粋に楽しかった反動」であることもある一方で、
後の「落ち込み」は、「その場に対する違和感」を知らせてくれている場合もあります。
この場合は「楽しかったけれど、その場や相手に何か違和感を感じている」というサインで、
「合わない何かがある」あるいは「まだ少し信頼が足りない」等というある種の「不安」が、
「自身の行いの批判的思考」として表れることもあります。
いずれにしても、「ただ楽しかっただけなのに」という場合の「自己批判的反芻」は、
「それだけ楽しい良い時間だった証」とも捉えられます。
そして、後の落ち込みを軽減するには、「楽しいことに慣れていくこと」だろうと思います。
一気に落ち込みをなくすことは難しいですが、
「楽しいことは非日常」という状態から「楽しいことがときどきあることが日常」になれば、
反動としてのうつ的状態も罪悪感も薄れて、
「自分を楽しませる」ことがより気軽にできるようになれるのではないかと思います。
相互作用
以上のように、「嫌なことを反芻してしまう」場合、
環境因とご自身が生まれ持った特性とが相互作用した結果であると考えられます。
記憶力の良さや生育環境など、さまざまな要因が作用しあった結果、身につけたストレス対処なのだろうと思います。
有効な対処法だった
まだ子どもで無力だったときに身につけた対処法が、大人になったら自分を苦しめるスキルになっていた、ということは意外と多いです。
「嫌なことを反芻してしまう」と大人になってから苦しむ場合、
ずっと前から理不尽な他者の不機嫌を受けながら、自分で自分を叱咤し、同じ間違いをしないようにと懸命に努力し続けてきた現われなのだろうと思います。
「他者の不機嫌」という答えの出ない難問を考え続け、そしてかつては実際にご自身に向けられていたのだと思います。
そういったたくさんの傷つきを、たった一人で抱えながら対処してきたのだと思います。
軽くするには
嫌なことは忘れたいです。グルグル考え続けたくなんてありませんよね…。
ただ、そう簡単にグルグルは止められないことは当事者のみなさまが一番実感されていると思います。
そこで、ここでは「反芻しちゃう自分が嫌」と思ったときに、
少し視野を広げて「自分が嫌」な気持ちを少しでも緩和できる視点を整理したいと思います。
「反芻」する意味
「考えても仕方がない」とわかっていても「嫌なことを反芻してしまう」のは、
それが苦しみでもありますが、自分の中で反芻することで消化もしているのだと思います。
先に触れましたが、反芻することが性格傾向ともいえる場合、
自身の負の面を外には出さない方が多いです。
「こないだAさんにこんなこと言われてものすごく傷ついた!!」
と言って回れる人もいますが、そういうタイプではない方がほとんどです。
どちらが良い悪いということではなく、
ご自身の痛みを誰かに解消してもらおうとせずに、自分の中で抱え続けて、抱え続けることで時間はかかってもゆっくり消化していくという対処は、ストレス耐性が高いということだと私は考えています。
記憶力の良さは武器
先ほどの「特性」の項目で、「嫌なことを反芻する場合、エピソード記憶能力に長けている」と述べました。
そこでも触れましたが、「嫌な出来事」に限らず、
ご本人は意識していなくても日々の出来事を非常によく記憶できるという能力を持っていることが多いです。
本人はそれが「当たり前」なので、あまりご自身の長所だと認識できていないことも稀ではありません。
けれど、本当によく覚えているので、誰かが以前に話したことをちゃんと覚えていて、同じことを聞いてしまって相手をがっかりさせるようなことが起きにくいですし、仕事上ではその記憶力のよさから信頼を得られていることが少なくありません。
ただその「強み」にご本人が気づきにくいのは、
わざわざそれを言葉にして他者が褒めてくれる場面はなかなかないこと、ご本人は「がんばって」記憶しているわけではないので、それが能力だと意識しづらいということがあります。
思考力がある
「嫌なことを反芻してしまう」場合、記憶力だけでなく思考力も高いことが多いです。
なぜなら「考える」ことで、危機を回避してきたからです。
環境因からの繋がりになりますが、思考力があり、それゆえに考えることができ、それが意識的にも無意識的にもご自身を助けてきた。
だからどうしても「考えようとする」のではないかと思います。
そしてその「思考力の高さ」は、物事を深く理解したり、ご自身の内面を整理したり、
さまざまな場面でご自身を助けてくれているのではないかと思います。
「嫌なことの反芻」だけを見れば、苦しみにしかならないと感じられるかもしれません。
けれど、その特性をもっと広げて見てみると、
長所や能力の表れでもあり、ストレス対処でもあり、他者を傷つけたくない争いたくないという優しさでもあるかもしれません。
↓押してくださると寝子の「反芻」が軽減されます!!
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超久しぶりに心理らしい記事を書いてみました!!
このブログも「闘病日記」を脱することができるか、見守ってくださると嬉しいです。
今日も最後までお付き合いくださってありがとうございましたm(__)m
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