誰かの不機嫌さにひどく動揺し、
「自分が何か悪いことしたかな?」と自己関連づけを深めてしまったり、
率先して機嫌を取りにいったりというような
「他者の不機嫌さや空気の悪さに耐えられないほど動揺する」
ということに悩まされているケースは多いです。
不機嫌さなどの「攻撃性」は、明るさや優しさなどのポジティブなエネルギーよりも強い雰囲気を発します。
そのため、不快に感じたり傷ついたりといったストレスになることは「普通の反応」で、
感受性が強かったらなおさら感じやすいと思います。
ある程度は「普通の反応」ではありますが、
今回は「過度に」傷ついてしまったり、「無理に」場を盛り上げようとするなど、
行動に直接の影響を及ぼしている場合の心理と対処法について整理したいと思います。
他者の「不機嫌さ」が及ぼすストレス
「不機嫌」「暴力」「怒り」などの「攻撃性」は、自分が感じていても抱えることがしんどいですよね。
軽いイライラから激怒に至るまで、程度の差はあっても決して心地のよいものではないかと思います。
自分の感情であってもそうであるのに、
他者の「不機嫌さ」などの「攻撃性」はどうしても振りまわされてしまう要素を持っています。
負の感情の破壊力
まず根本的に、「不安」や「ゆううつ」などの比較的静かな負の感情であっても抱えるだけでしんどいです。
自分ではない他者が落ち込んでいたら、やっぱり少しは気が沈む人が多いのではないかと思います。
このように、感情は移り合う性質があります。
負の感情の中でも、「不機嫌」「怒り」などの「攻撃性」は、非常に強い威力を持って自他にダメージを与えます。
これは、感受性の強弱などの個人差はあるとはいえ、「捉え方」だけで変わるものではありません。
何らかの攻撃性を受けた場合に、「どれだけ尾を引くか」「どれだけ深く傷つくか」などは感受性の程度や捉え方が関わると思います。
けれど、無視などの陰湿なものから暴力などのあからさまなものまで「攻撃性」というのは、
強いエネルギーを持ち、自他に侵入的に響く性質の感情です。
ですので、「基本的に不快になるのは当たり前」ということは忘れずにいたいポイントだと思います。
正体がわからない
「怒り」「不安」などの負の感情は、
そもそも「漠然としているより具体的に」したほうがストレスが軽くなり、心が多少なりともスッキリできます。
「なんでイライラしているか分からない」「とにかく何もかも不安だ」というような「漠然と」していればしているほど、不快感は膨らんでしまいます。
人は本能的な作用として、不快感を「解消して!」と自分に要求します。
それが場合によっては「強迫性障害」のような過剰な形となってしまうほど、
「負の感情をなくして!」という訴えは強烈だと捉えることができるかと思います。
そのような心理原則の中で、自分の気持ちであれば、なんとか理解し解消していくことも可能だと思います。
しかし、他人の感情であったら、これはわかりません。具体的にすることはほぼ不可能です。
攻撃性を放っている本人でさえ、自分の不機嫌さの原因や言動に気づいていないことが多いです。
そのため、そもそも「モヤモヤのまま」不機嫌さを撒き散らしている場合がとても多いのが現実だと思います。
ということは、それを受け取った側はもっと「得体の知れないモヤモヤ」として心に入ってきてしまいます。
自分のものではありませんから、なんとかしたくても、なんともできないのですよね。
それが子どもの頃からであったら、自分に起きる「モヤモヤ」が、他者の攻撃性を受け取ったからだとははっきり認識できません。
「自分が悪いからかな」等と考え始め、「なんとかしよう」としているうちに、
不機嫌を撒き散らす他者の機嫌を取るようになっていたという、気づきにくい状態になっていることがあります。
自他境界があいまい
他者の機嫌を「自分が原因なのかな?」等と自分と関連付けてしまうことを
「自他境界があいまい」と表現されることを見聞きしたことがある方は多いかもしれません。
「自他境界」はとても重要で、「人のことは人のこと」と線を引くことです。
この「自他境界のなさ」は、根本には「自分を守るガードがない」ということから発生していると推測できます。
人の機嫌の悪さや攻撃性が、まっすぐに心に入ってしまう状態です。
機能不全家庭に育ったり犯罪被害に遭ったりすると、他者がご自身の尊厳を守らずにズカズカと土足で心を荒らすという事態が生じています。
「基本的信頼感」の記事でも説明していますが、「安全感」に繋がる感覚やスキルは後天的に育まれます。
「安全感」を持つことができる要因の1つに「自分の敷地に許可なく侵入させない」という自尊心があげられます。
これは、尊厳が守られていくことで育っていく「自分を自分で守るベール」のようなイメージです。
ズカズカと土足で心を荒らされてしまうようであったなら、
「自他境界」の役割を果たす「自尊心というベール」がないまま、
他者のことを自分のことのように感じ、気力体力が削られてしまう状況になってしまっても無理もないと思います。
生育過程での学習
このように、他者の機嫌の悪さに敏感で、
責められているように感じて傷ついてしまったり、
率先して機嫌を取りにいってしまうなどの背景には、やはり幼少期の家庭環境の影響が多大にあると思われます。
家庭環境だけでなく、クラスや部活動など何かしらの集団組織での経験が刻み込まれている場合もあります。
始まりは「上下関係」
自分が子どもである時期の「親」という存在は、圧倒的に上の立場で、
大げさではなく子どもの命を握っています。
そのため、「親の顔色を伺う」ことが生命維持のために不可欠になり、
それがいつのまにか習慣化し、「不機嫌さを察知し、機嫌をとる」という対処法が磨かれていき、
気づいたら学校や会社などの外でも行うように「般化」するようになっていることが珍しくありません。
「般化」とは
「般化」とは、心理学で、「始めの刺激と似たような刺激を受けると全般的に同じ反応を起こす」ことをいいます。
臨床的には「トラウマ反応」が「般化」として説明されることが多いです。
例えば、男性から加害を受けたら、加害者本人だけではなく男性全般に恐怖心を抱くようになるなどが代表例です。
「考え続ける」ことの習慣化
家族療法の記事で、「激しい感情表出をする人が家族メンバーにいると病気になりやすい」と書きましたが、
「攻撃性」というのは、受け手を病気にするほどのダメージを与えます。
もしそれが親であれば、「不機嫌」という攻撃性を日常的に受け、ビクビクしながら過ごすことになります。
そして、その「不機嫌さ」「イライラ」には一貫性がありません。
何が地雷になるかわからないため、「ずっと考え続ける」状態にならざるを得なかったと考えられる場合がほとんどです。
もし大人になってからも「人の不機嫌さや少しの注意が気になってずっと考えてしまう…」としたら、
かつて生きるために必要であった「どうしたら怒られないだろう?」という答えのないテーマを必死に考え続けた習慣が、
今も残っているからかもしれません。
なぜ繰り返してしまうのか
先に述べたように、過酷な状況下で生きるために必要な対処であったことが「般化」した結果として、
大人になっても他者の不機嫌さに深く傷つき、自ら機嫌を取りにいく行動を繰り返してしまうことがあります。
この行動についての理解を深めたいと思います。
当時は適切な対処
人の不機嫌さに動揺し、頭ではわかっていてもどうしても気になって機嫌をとってしまうということで悩んでいる場合、
「今は不適切になったけれど、昔は適切な対処だった」という学習の連続の結果、
その行動が条件反射のように強化されてしまって、すぐには取れないということがあります。
イメージしやすくするために平易な表現をすると「クセ」のようなものだといえるかもしれません。
「クセ」というと軽い印象を受けるかもしれませんが、
人生を左右するほど「クセ」「慣れ」というのは実は深いテーマであると思います。
「認知の歪み」という用語が一般にも広まっていますが、
これは「思考のクセ」とも言い換えられることがありますよね。
同じように、行動にも「クセ」があります。
「クセ」であれば、そうすぐには変えられなくて当然なのだと思います。
そして、「人の機嫌を取る」という行動がクセになっていたとしたら、
それくらい傷を負い、それでもがんばり、不穏なストレスフルな環境下で自分の力で生き抜いたという証だと思います。
だとしたら、「有効な対処法」として心身に刻まれたとしてもなんらおかしいことではありません。
自分の気持ちが分からない
自分の気持ちに寄り添うよりも、誰かの機嫌を伺う日々を過ごしていると、
他者の負の感情にはとても敏感になり、その他者にとっては嬉しい対応ができるようになることも珍しくありません。
一方で、自分の気力体力ひいては思考力や想像力までも他者に向けて遣いきってしまっていることが多いので、
自分に関心を向ける余力がなく、
自分の気持ちや思考については「わからない」状態になっていることがあります。
そのため、「人より自分を大切に」と言われても、自分がどうしたいのか、どう感じているのか、困ってしまうことが少なくありません。
さらに、他者の不機嫌さに敏感で、傷つく経験が多いと「負の感情を出すことは人を傷つける」と心に深く刻まれて、
自分の心の苦しみを出せなくなることが珍しくありません。
人に悩みや愚痴を話して自分の気持ちを整理したり、ツライときにツラそうな表情をしたりするなどができなくなっていることがあります。
そういったことが重なり、なおさら自分の気持ちに気付くことが難しくなってしまう傾向があると思います。
なのでどうしても自分の感覚よりも他者や場の雰囲気を先に察知できてしまいます。
そのため、行動も先に察知した刺激に従うとなっている場合があります。
「不機嫌」の出し方は100%向こうのせい
「他者の不機嫌さに敏感」という心理について整理してきましたが、
自身の心理の理解や対処法を知ること同じくらいかそれ以上に非常に重要な視点があります。
それは、「行動の責任は全て本人にある」ということです。
信田さよ子先生がお示しくださっている論理をご紹介したいと思います。
加害者の行動が100%悪い
モラハラなどのDVや性犯罪被害のときに極めて重要になる視点が
「被害者側の要因がどうあれ、“暴力”という行動を選択した加害者の行動が100%悪い」
ということです。
これは信田さよ子先生が「加害者更正プログラム」で実施されている教えです。
私はこの教えを信田先生からご教授いただいたおかげで、その後の臨床にどれほど役に立ったかわからないほど、被害者の人にとっても本当に重要な論理です。
DV加害者の例
上記の論理をDV加害者の言い訳を例に具体的に記します。
「妻(子ども)が言うことをきかないから殴った」
言うことを聞かないなら、「話し合う」「その場を離れる」「諦める」など「殴る」以外の行動の選択肢があった。
にも関わらず「殴る」という行動を選択した加害者が100%悪い。
「攻撃性」全般に当てはまる
この論理は、「暴力」でなくとも、
「不機嫌」「怒り」という態度で無意識であっても人をコントロールしようとする場合など「攻撃性」全般に当てはまることです。
仮に、家族や職場の上司や同僚の不機嫌さや怒りの原因が自分であったとしても、それをどう出すかはその人の責任です。
ひいては、誰かの言動に抱く感情は、個々それぞれ異なりますから、怒りや不機嫌さそのものもご本人の問題です。
まして、それを攻撃的な態度で出すことを「○○が気に入らないことをしたから」などということはなんの正当性にもなりません。
このことを忘れずにいたいと思います。
そもそも誰かの不機嫌さはご自分のせいではないことがほとんどだと思います。
ただ、仮に、ご自身が原因であるという場合であっても、相手にはそれをどうするかの行動の選択肢があるのです。
相手の行動の責任まで、抱える必要はありません。
そのことを踏まえた上で、対処法を整理していきたいと思います。
対処法
今回取り上げた「他者の機嫌に敏感」ということに対する対処に限らず、
「環境」と「全体的なストレスの量」を検討することが
ストレス対処には何より優先したほうがいい視点になると思います。
他のストレスにも共通して重要な「環境の見直し」と「全体的なストレスの量」について取り上げた後で、
「他者の不機嫌さに傷つき、機嫌をとってしまう」ことに対する対策をまとめたいと思います。
環境の見直し
「不機嫌な人に振り回されてしまう」という場合の対処法を考えるときに最も重要な点は「環境の見直し」です。
先に述べたように、受け手の要因がどうあれ、「攻撃性」というのは人にダメージを与えます。
まして、感受性が強く、他者の機嫌に傷ついてきて、「どうしても機嫌を取ってしまう」という人ならなお更に、
不穏な環境からは遠ざかった方がいいことは間違いないと思います。
「不機嫌がダダ漏れ」している人を容認する環境や、そのような人が上の立場であったら、受
け手側がいくら努力してもストレスを軽くするのは現実には難しいと思います。
逆にいえば、ストレスを感じるご自身がおかしいということではないということです。
他者の不機嫌さを「無視できるかどうか」は、ご自身だけの問題ではなく、
他者から発せられる攻撃性の程度の問題の影響を多分に受けると思います。
ここの見極めは、正直なところ、個々それぞれのケースによる見極めが必要になると思います。
全体的ストレスの量を減らす
人は疲れていればいるほど、ストレスを抱えていればいるほど、
ネガティブになりますし、些細なことも受け流すことが難しくなり傷つきやすい状態になってしまいます。
そのため、「人の機嫌に過敏」という反応においても、疲弊しているときに「受け流そう」としても難しいのが現実だと思います。
なので、まずは、「他の事柄に対しても否定的になっていないか」「疲労やストレスが蓄積されていないか」等と、
ご自身を見直してみてほしいと思います。
見直した結果、「全般的に傷つきやすく否定的になっている。疲れている」という場合には、
特定の刺激に対する対処をする前に、まずは休んで、体力を少しでも回復させられたらと思います。
傷つきを否定しない
これまで触れてきたように、他者の「攻撃性」は傷つくものです。
なので、「傷つかないように」ということを目指してしまうと返って苦しい心境になってしまうことが多いですし、
小さな棘が刺さったという程度のことであったとしても、その傷をなかったことにしてしまうのは、回復を妨げてしまうと思います。
なので、誰かの不機嫌さに傷ついたり不快な思いを感じたら、その自分の傷つきは事実として、一度はちゃんと拾ってあげてほしいなと思います。
あまり深刻に考えるとしんどい場合も多いかと思いますので、「蚊に刺された」「交通事故にあった」等と、
何かに例えて「不運」を嘆き、「嫌だったな」とご自身の気持ちを出してあげられるといいと思います。
交通事故
単発の軽い場合になりますが、ご本人に責任はないけれど、誰かの攻撃性を受けてショックを受けている場合に、
私は「交通事故」に例えて整理することがあります。
どんなに気をつけていても事故に遭うことはありますよね。
仮にどちらにも大きな過失はなかったとしても、傷つくしショックを受けますよね。
「事故っても全く動揺しないように」というのは通常は無理ですよね。
また、「どうして事故ったのだろう?」と考え過ぎても仕方がないことがあります。
怪我の程度や相手の対処などによって精神的なストレスも変わる点も、交通事故と似ていることがある思います。
理想としては、そういった日々の出来事を誰かに話せたり、つぶやいたり、
アウトプットできるとより良いと思います。
アウトプットすることは、気持ちの整理や感情の消化になり、「区切り」にもなる有効な対処だと思います。
行動の「クセ」を変える
「無理に場を盛り上げたり、不機嫌な人の機嫌をとってしまう」という行動に関して、
自分が「モヤモヤした」というとき、一瞬でもいいので、一旦「止まる」ようにしたいと思います。
「自分のモヤモヤは○○さんの機嫌が悪いからだ」と認識できている場合もですが、
「自動的に機嫌を取りに動いている」という場合もあります。
なので、まず、「行動する前に止まる」ように意識してみる段階が必要なことがあります。
「自動的に動いた」場合、後からでも大丈夫です。
後から「あ、機嫌を取りに行ったな。なぜだろう?ああ、不機嫌そうに見えたからか。そしてそれにモヤモヤしたからか」
と振り返るようにしてみてほしいと思います。
そうすることで、だんだんと行動する前に止まれるようになり、
「自分から近づいていかなくていい」という経験を重ねることで、
「般化」された行動が「消去」される方向にむかうことができます。
これは「強迫性障害」に有効な「曝露反応妨害法」とメカニズムは同じです。
「ついやってしまう行動」を「我慢する」という訓練です。
何もしない
「ついやってしまう行動」を「我慢する」という訓練が対処法として重要になります。
そのため、「行動はなにもしない」ということになります。
心は傷ついたり動揺したりしていても、「機嫌を取りにはいかない」と決めることは大事なポイントだと思います。
「他者の機嫌を取りにいく」という行動は、「再演」などの「トラウマ反応」である可能性もあります。
あるいは、先ほど述べたように広い意味ではある種の「強迫行動」と捉えることもできます。
いずれにしても、誰かの機嫌をとる役目を担うことは、
その瞬間は落ち着いても、その都度新しい心の傷を増やし、魂を削り続ける行為
であるといえると思います。
環境を変えられたらベストです。
ただ、そうできない場合は、できるだけ離れ、ストレスを感じる自分を肯定しながらも、
行動は不機嫌な他者には遣わないように訓練していくことが大切であると思います。
自他境界を作る
自分の内面を振り返ることは「自他境界」を作っていくことに繋がります。
他者の機嫌に思いをはせる以上に、自分に気力体力を向けてあげるようにしたいです。
「自分はザワザワした」「あの人の不機嫌さが怖いのだ」と、まず「自分」を気にしてあげる。
そうしていくことで、「人の機嫌の悪さの察知は早いけれど、自分の気持ちはわからない」という状態が変わっていけると思います。
だんだんと、自分の気持ちや感覚を実感していけるようになっていけると思います。
安心できる場所を持つ
「環境が大事」というとき、できるなら「不穏な環境」からは去って、安全な環境へと移りたいです。
けれど、そうできる場合ばかりではありませんし、新しい環境が必ず「安全」とは限らないので、
「環境を変える」というのはそう簡単ではないことは多いですよね。
そういう場合、「既存の環境以外の場を増やす」ことが、不穏な環境下の自分をなんとか支えていく資源になり得ます。
ただ、例えば「DVを受けているけど、その環境のままで医療機関を受診する」という場合、
スムーズに回復していくことは極めて難しいことが想像できるかと思います。
けれど、「不穏な環境」で過ごす時間ばかりであったら、もっと追い詰められ、自己否定的になり、心無い攻撃性をもつ他者にコントロールされてしまうこともあるでしょう。
なので、環境を変えられないとしたら、別のところで安全な対人関係や居場所を持つようにできるといいと思います。
これは直接的な人との交流に限らなくてもいいと思います。
自分の興味がある習い事に通う、好きな本を読んだり映画を観たりする、マッサージなど体のメンテナンスをするetc。。
とにかく「自分が好きだと思えること、ほっとすること」に触れていることは非常に重要だと思います。
これは「認知的不協和」の記事で解説していますが、
「自分を大切にする」ということは、「自分が経験していることが自分にとって心地よいこと」を経験していくことです。
ないがしろにされる環境であると、どうしたって自己否定してしまいます。
だからこそ、触れる外部刺激に心地の良いものを持っていることが重要になると思います。
対処の順番
「他者の不機嫌さに傷つきやすいことを何とかしたい」と思うとき、
その点を最初から取り組めるというケースは稀であると思います。
この課題にストレートに取り組むためには、これまで述べたように、「環境要因」や「全体的なストレスの量」などへの対処がまず先に必要になります。
それくらい、「他者の攻撃性から身を守る」という行為はエネルギーを要するということであります。
そのため、全体的な体力の必要性と対処の順番について改めて整理します。
「防御力」も体力の一部
他者の攻撃性をスルーするためには、「防御力」が必要になります。
「防御力」も「攻撃性」の一種です。
「攻撃性」とは、もとを辿れば「体力」です。
「考え方」を変えるよりも、まず体力の要因は忘れないでおきたいです。
「攻撃されたときに跳ね返すだけの防御力がない」ため、機嫌を取ることが唯一の対処法である場合があります。
繰り返しになりますが、衰弱していれば、どうしたって迎合するしかない状態になることはおかしいことではありません。
「自分の捉え方が悪いんだ」「気にしないようにしているのにやっぱり気になってしまう…」というような自己否定の気持ちに繋がってしまいますと、
さらに疲弊してしまい、良いことがありません。
違う見方をすれば「他のストレスを減らせば」「環境を変えれば」「居場所を他に増やせられれば」、
他者の不機嫌さに対する傷つきや過剰適応も軽減される可能性があります。
なので、最低限の防御力を身につけるには、まず、食べられるものを食べるようにし、眠れるようになりたいです。
うまく眠れなかったら、睡眠時間は長くとりたいです。
できそうであれば好きなことを好きなだけする時間を取りたいです。
そして「疲労の軽減」や「体力の回復」は、「人の不機嫌さにやられてしまう」ということだけでなく、
自己否定感や否定的な認知なども改善させる忘れてはいけない根本的な部分だと思います。
ある程度は「傷ついて当然」とその都度認めてあげながら、心身の全体的な元気度を上げていけたらと思います。
リソースに気づく
「他者の機嫌の悪さや場の空気の悪さに敏感でなんとかしようとしてしまう」という場合、
それが仮に「自分が傷つきたくないから」だとしても、根本的に優しい人なのだと思います。
先ほどの信田先生の「行動の選択肢があったのだから加害行為を選んだ加害者が100%悪い」という論理と同じで、
仮に「自分が傷つきたくないから」「嫌われたくないから」であったとしても、
「やり返す」「八つ当たりする」など他にも行動の選択があったのに、
誰かの不機嫌さや場の空気を「良くしよう」と自らのエネルギーを費やすという結果であったということは、
非難されるようなことでは全くありません。
自分を守ることがうまくできないだけであって、自分が傷ついてきたからこそ、
誰かが傷つくことに敏感で、優しい対応をいつもしていることが多いです。
このような場合、他者の攻撃性に深く傷つきやすいですが、
人の優しさや思いやりにも細かく気づき、それを支えにできる傾向があるように思います。
先ほどの「安全な場を持つ」という対処に繋がりますが、
自身のもつ優しさなどのエネルギーを、自分や好きな事柄や大切な人たちに向けるように意識するだけでも
変わっていけるのではないかと思います。
↓押してくださると皆さまの優しさがパワーになります!!
そのパワーで寝子が「他者の不機嫌さ」を跳ね返すことができます!!
↑毎回押してくださる方、神様みたいです!!
嬉しいです!いつもありがとうございます!!
夏は汗をかき、食が進まなくなることが多いので、体力を消耗しやすいですよね。
誰かの攻撃性を無視できるためにも、たくさん食べてたくさん寝て、気力体力を回復できたらなと思います。
今日も最後までお読みくださってありがとうございましたm(__)m
またのお越しをお待ちしております♪