人間関係で体験する根本は養育者との体験になります。
他者の助けがなければ生きていけない子ども時代に経験された対人関係は、
その後、他者と関わるときの“見本”となり、
大人になっても“対人関係の雛形”は昔に学んだものが引き継がれていることがほとんどです。
同時に、子ども時代に親との交流で起きた感情は、
大人になって似た状況になると、かつて起きた反応が起きるといわれています。
トラウマケアを考えるとき、過去の自分と今の自分との繋がりを理解できると、
今抱えている苦しみが緩和され、これから変化していける助けになることがあります。
今回は、「今の対人関係に影響している“由来”」について、理解していきたいと思います。
目次
セットで起きる感情
「子どもは無力で大人の支えがなければ生きていけない」ということは、
その命を握っている養育者や家庭からの脅威は想像を超えるほど心身に影響を与えます。
子ども時代は、その脅威を意識してしまうと日々を生き抜けないために、無意識に感情を抑え、適応します。
そのため、大人になってもご自身の心の傷の深さにピンと来ず、
「なんでこうなるんだろう?」と現状を理解できず、ただ自分を責めてしまい、対人関係で悩むことは珍しくありません。
ここでは、「子ども時代に経験されていた感情」が「大人になった対人関係で出ている」という代表的なパターンを整理したいと思います。
アンビバレンスな感情
初めて経験する対人関係は養育者です。
そのため、初めて&頻繁に体験した対人関係の反応は“学習”として心身に記憶されます。
機能不全家庭で育つと、親との間に抱く感情は
「一番近い存在だけど恐ろしい」
「この人がいないと生きていけないので大切だけれど嫌い」
「助けてくれるはずなのに助けてくれない」等といった
アンビバレンスな感情の体験を積み重ねていくことが多いです。
そうすると、大人になってから「親しみ」を感じた他者に対して、
過去に「親しみ」を感じ続けた親に対して同時に発生した苦しい感情がセットになって身体反応として繰り返されることがあります。
「好きだけど怖い」
「信じていいはずなのに不安」
「心が通うという実感がない」etc。。
この反応のために、好きなはずなのに強烈な怒りも表出してしまったり、親しくなればなるほど不安もどんどん強くなってしまうなど、
「親しさ」に苦しみが伴い、そのことで今の対人関係がうまくいかず、
さらに人間関係に自信が持てなくなってしまう苦しいスパイラルになってしまうことがあります。
他者の不機嫌さへの恐怖
「他者の不機嫌さに深く傷つく心理とは」という記事でも概説していますが、
ここでも触れたいと思います。
大人になって対人場面で場の空気の悪さや他者の不機嫌さに耐えられないほど動揺したり、
その場を自ら率先して良くしたり、
不機嫌な人の機嫌を直そうと自ら関わることを繰り返すケースがあります。
ご本人もそれがご自身にとって消耗になっているし、新たな傷つきになっていることが分かっていても、
誰かの不機嫌さや場の空気の悪さにじっとしていられないほどの恐怖を感じます。
これも感情のフラッシュバックの側面があるといえると思います。
冷静に考えると、そう脅えるほどのことではない、放っておいたって大丈夫、と思える場面が多いと思っても、
自動的な身体反応であると捉えられることが多いです。
子どものころの周囲にいる大人の不機嫌さは、大げさではなく、子どもの生命に関わります。
そのことを、私たちは本能として知っており、無意識のうちに危機を察知し、
生命を脅かす危機は身を守るためにその後も忘れないように脳に刻まれていきます。
なので、大人になってからも他者の不機嫌さに深く傷ついて、
「自分が悪かったのかな?」「何かしただろうか…」「場を穏やかにしないと」等と反応していたとしたら、
それほどに子どものころ、誰かの不機嫌さや場の空気の悪さに傷ついていたということで、
その傷が、まだ癒されていないのかもしれません。
意識したいポイントは、大人と子どもとでは、周囲の大人の不機嫌さがもたらす威力はまるで違うということです。
小さい子どもの立場では、自分の命を、生活を、その場にいる権利を、全て握っている親が「不機嫌」というのは、
意識にあげられないほどの恐怖になり、深い傷つきになります。
そのときの自動反応が、大人になって他者の不機嫌さに直面するとセットで出ているのかもしれません。
強いショックと「全か無か」の思考
「自分を含めた世界の見方」は、やはり「親がどう見ていたか」ということに影響されます。
ここでは、対人関係にも影響する「全か無か」という「白黒思考」や
「極端な結論付け」の由来について、整理したいと思います。
些細な指摘を全否定と受け止めてしまう
養育者に「好かれたい」「認められたい」と思って振舞っていて、
それに対する親の反応が否定的であったら、子どもにとっては生命を脅かすほどのショックになりえます。
同じように行動したときに相手の反応が悪かったら、「嫌われた」と一気に結論付けてしまい、傷つきを深くしてしまうでしょう。
大人になってから「相手はただ注意しただけなのに、そのことをいつまでも引きずってしまう…」という場合、
子どもの頃、家庭内で暗黙の「役割」を背負っていて、
「その役割を果たさないとここに居られなくなる」というような恐怖や不安を体験していた場合があります。
ご本人は子ども時代に家庭内で「役割」を課せられていたことすら自覚されていないことも少なくありません。
ただ、「きょうだいの面倒をみないといけない」「母の話を聞かなくてはいけない」「自分の悩みを言ってはいけない」etc。。
このような暗黙のルールみたいなものがあったなら、
それができなかったとき「この家に居てはいけないいのかも」という恐怖を無意識に感じることはおかしくありません。
それほど、子ども時代の家庭と養育者がもたらす影響は甚大なのですよね。
この反応が「自動反応」となり、大人になってからも引き継がれ、些細な指摘が過去の深いショックと傷つきと結びつき、
「もうお前の居場所はないぞ!」と言われているかのような身体反応を起こし、
「居場所がなくなる」という不安や恐怖をも同時に連れてきてしまい、
苦しい状態が続いてしまうことがあります。
「悲しみ」の否認
トラウマを理解しようとするとき、暴力などかつて「されたこと」を癒すことと同時に、
「してもらえなかったこと」という「なかったサポート」に対する心の傷も深いものであることが指摘されています。
食事や衣服など、物はそれなりに与えられていたけれど、
情緒的サポートがなかった、というケースにおける心の傷はわかりにくく非常に深いものです。。
人は、不安や悲しみなど、不快感を抱くと、
それに養育者が反応してくれることで、自分の感覚を理解し、そこから安定まで戻っていける体験を重ねることができ、
どのような感情にももちこたえることができるようになっていけるといわれています。
その支えとなるものがほとんど得られなかったら、
自分が感じた「悲しみ」や「弱さ」を否認してしまうことがあってもおかしいことではありません。
「完璧でないと許せない」「人に頼るなんて弱い人間だ」等といった自分への過剰な厳しさになることがあります。
また、「すぐに怒って暴力を振るう父親が大嫌いだった」「ただ泣いているだけでなにもできない母が嫌だった」等というような気持ちを抱きながらがんばっていた場合、
「怒り」は「良くないもの」となったり、「1人だけで泣かずにやっていけるようになる」等と
「怒り」や「弱さ」を嫌悪したりするようになることがあります。
これは、懸命に生きていこうとした決意であり、
当時は必要だったことは間違いないのではないかと思います。
ただ、そのことが、大人になってもう自分を解放してよい状態になっても、
怒りを「悪者」としていることや「弱みをみせることは悪」と考えていることなどによって、
「大人の自分」を労えない状態になり、生きづらさに繋がってしまっていることもあります。
社会的場面で抱える困難
幼少期に体験した対人関係によって、他者と対等な関係性を結ぶことが難しくなることがあります。
ここでは、他者との「関係性」という視点で、社会的な場面でどのような苦しみになるか考えてみたいと思います。
「被害者か加害者か」
家庭内にもし「加害者と被害者」しか居なかったら、
対人関係の持ち方も「上下関係」でしか結ぶことができなくなることがあります。
「対等に尊重され合う関係」は経験がないですし、
慣れない状態は不安や恐怖を強めます。
そのため、加害的な人物に出会うと、無意識のうちに「下の立場」になっていたり、
「加害者側にいたほうが安全だ」という子ども時代の学習のために自ら近寄ってしまうなどということがあります。
このメカニズムは別の記事の『再演』や
『ストックホルム症候群』とも密接に関わっています。
ご自身を理解するにあたって、どのような解釈がピンとくるか、
ご興味があればぜひこれらの記事も参考にしていただければと思います。
「役割」
機能不全家庭であると、基本的に「そのままでいい」という感覚を持つことが難しくなります。
「いい子にしていなければ」といった思考に代表されるように、
「自分ではない誰か」に常に配慮し続け、
その人の役に立つように行動しなければと過剰適応していることがあります。
例えば「面倒を見る役割」を子ども時代に背負ったとしたら、
大人になってからも「誰かの世話をやく係」となり、
自分よりも他者の面倒をみることに多大な労力を遣うようになるという場合がイメージしやすいかもしれません。
このような場合、子ども時代に役割を果たすことによって親に好かれたかったと内心で思っていることが多いです。
そのことで、実際は言葉に出さずとも、「報われたい」という思いが強く、
けれどもそれを言葉にできないまま行動は他者のために費やすので、内心で虚しさや不満が溜まってしまい、
せっかくの労力が自分の望みとは離れてしまっているという事態も少なくありません。
あるいは、仕事で過労するほど働いていないと「居る価値がなくなる」と思い、誰よりも働き、
心身を壊してしまうという形で出ていることもあるでしょう。
そうであれば、かつて1人では生きていけなかった時期に「役に立たなければ居られなくなる」という脅迫的なプレッシャーを抱えながら生き抜いたのかもしれません。
非力でどうやっても助けが必要だった時代に、必死でがんばった子どもの自分を癒してあげる段階にきたのかもしれません。
このような場合、「面倒を見る」という方向性を他者ではなく自分に向けてあげるエネルギーの方向転換が必要になります。
「逃げる」ことができない
大人になって、自分で選ぶことができるようになっても、仕事や趣味の場などにおいて、
どんなに劣悪な環境でもその場に長く居続けてしまうことがあります。
なかなか「逃げる」「辞める」ということができず、心身を壊すまで去ることができない。。
これも幼少期に得た生存スキルによるものかもしれません。
繰り返しになりますが、子どもにとって、どんなに家庭が嫌であってもそこから逃げることは死ぬことを意味するといっても過言ではありません。
「逃げる」という選択肢は持っていないのですよね。。
そのため、なんとかして耐えるスキルが強化されていきます。
「逃げたくても逃げることが怖い」
逃げてしまったら家もなくご飯もなくなってしまいます。
そのときに刻まれた「逃げることは命を奪うかもしれないほど不可能なこと」という恐怖は、
その後に影響したとしてもなにもおかしくはないですよね。。
「してもらえなかったこと」の希求
先の「セットで起きる感情」と根は同じになりますが、
親しい他者ができたとき、かつてして欲しかったけれどしてもらえなかったこと、
受けとめて欲しかったけれど受け止めてもらえなかったことを強く求めることがあります。
代表的なケースを取り上げたいと思います。
試し行動
機能不全家庭の場合、基本的に「誰からも理解されなかった」ことが多いです。
そのため、「分かって欲しい」という気持ちを内心でたくさん抱えていることが珍しくありません。
「分かって欲しい」「受け止めて欲しい」という渇望が、
近しくなった相手に対して「向き合ってほしい」と何度も強く求める行動として表れることがあります。
同時に、かつて「どんなに試してもわかってもらえなかった経験」があるため、
相手に対して「試し行動」を繰り返しながら、
「どうせ分かってくれない」「ダメになるんだ」という経験に裏打ちされたネガティブな結果を自ら招いてしまうことも多々あります。
このような場合、「他者と親密な関係を築き維持する」ということは未知な体験になるので、
「安心できる信頼関係」というものを感じ始めると、同時に不安も連れてきていることが多いです。
「安心と不安」が混在する、まさにアンビバレンスな状態ですね。
この「不安」を「相手が信頼できないからだ」「やっぱり私がおかしいんだ…」等と相手や今の自分のせいにせず、
「安心できる関係性に慣れていないからだ」と理解できると、
ぐっと踏みとどまって関係性を続けることができるようになるかもしれません。
加えて、誰かに頼ること、誰かに甘えることも慣れていません。
これから「ちょうどいい具合」を模索していきます。
なので、いきなりはうまくできないことも理解してあげられているとご自身の支えになるのではないかと思います。
怒りの表出
例えば、親に対して「この人は必要だけれど嫌い」という思いを抱いていたとすると、
大人になって「必要な人」と出会い、関係性を深めようとしたときに、
「なぜかイライラする」「嫌いなところをみつけてしまう」等といった反応になることがあります。
「親」は「傷つけてくる人」となり、一番身近にいる他者が自分を一番傷つけてくるというは、耐え難いことであり、
場合によっては強烈な怒りを後に生み出すことになりえます。
「親しみ」は「怒り」と結びつき、さらに大人になるまでその「怒り」は認めてもらえないまま蓄積されています。
そのため、自分でも手に負えないほど雪崩のように怒りが出てきてしまうことがあります。
その結果として、
「大切な人なのに壊すような言動をしてしまう」
「この人への怒りじゃないはずなのにどうしてか恋人に対してだけ暴言が止まらなくなることがある」
というような行動になることがあります。
対処法
対処法に関しては、他の記事でも繰り返しているように「気づく」ことに集約されます。
ご自身の「自動反応」に気づくことが、まず何よりも重要です。
その上で、気づいた後で意識するとより良いと思われることを整理します。
「今」のせいではない
気づいた上で、現状を見るとき、
「今の相手や自分が悪いわけはなく、トラウマ由来の反応なのだ」
と意識するだけで強烈な負の感情を扱いやすくなることが多いです。
過去に学んだ「物の見方」によって、「今」が歪んでいるかもしれない。
ただそう見えることを「悪い」とするのではなく、「由来」を理解し、今、改めて見直してみる。
その繰り返しによって、新たな見方を獲得していけるといわれています。
「脅威」はあの頃とは違う
気づき、「今のせいではない」と意識した上で、感じている「脅威」をもう一度落ち着いてアセスメントしてみましょう。
「今もそんなに脅威に感じる必要があるだろうか?」と。
子ども時代をなんとか生き抜いて、大人になった自分を感じてみてほしいと思います。
もし万が一、「今も充分怖い」としたら、今の環境が不適切だというサインであることもあります。
「耐えられない」と思うことは何か
「脅威はあの頃とは違う」とはいえ、その脅威に「耐えましょう」ということではありません。
自分を理解するために「耐えられないことは何だろう?」と考えてみると、
そこから“由来”に辿り着き、自分を守っていけることに繋がることがあります。
ご自分にとって耐えられないことは、例えば「不機嫌さ」かもしれません。
あるいは「大声」かもしれません。
あるいは「無視されること」かもしれません。。
対人関係において自分にとって耐え難いことを知ると、
その場になったときに破壊的な行動を取ることを減らし、安全な環境に身を置くための助けになると思われます。
感情のまま踏みとどまる
不快な気持ちからは逃れたいです。。
けれど、理解できないままであると同じ苦しみを繰り返してしまいます。。。
なので、他の記事でも繰り返していることではありますが、
不快な気持ちに日々さいなまれていたり、苦しい行動をしていたりしたら
「自分を理解しよう」と踏みとどまってみてほしいと思います。
ただしこれは「苦しい環境に我慢して居続ける」という意味では決してありません。
その場合はまず環境を変えることが優先されるでしょう。
「自分でも現状に照らし合わせると不合理な反応である」と考えられる場合において、
「どうしたらこれが解決できるか」という問いかけを直ちにすることはしないで欲しいと思います。
お気持ちは痛いほどわかります。。
けれど「どうしたら今の感情がなくなるのか」ということを直ちに考えることは、その時の「苦しみの否定」になります。
ひいては、怒りや不安や恐怖、傷つきそのものを「良くないもの」とし、
「いなくなってほしい」と追い出そうとしていることになってしまいます。
なので一旦、「つらいよね」等と自らに共感をしてみてほしいと思います。
人の感情の中でも、「負の感情」は、生命維持のために必要不可欠だといわれています。
今はふさわしくないほどの強さになっているとしても、
由来をたどれば、当時の自分を助け、意味があった反応だったのだと思います。
そしてそのような苦しみを抱えて大人になるまで自分で自分を支えて生きてきたのです。
それを今からようやく癒すことができる段階にきたのかもしれません。
ですので、今の苦しい感情を追い出そうとすることは、
かつてされたことをまた自分にしてしまうことになってしまっていることもあります。
「なくしたい」というよりは「一緒に生きていけるためには」という視点を感情に向けてあげてほしいと思います。
↓押してくださると寝子が飛び上がって喜びます!!
やったぁ!!!
↑いつも手間のかかる一押しを本当にありがとうございます!!
みなさまからの貴重な一押しが励みです!!
「自分を理解し、労う」という作業は、実際には難しく労力がいるのだと思います。
けれど、簡単ではないからこそ、自分に手をかけてあげることになり、
根本的な癒しをもたらしてくれるのだろうと思います。
今日も最後までお付き合いくださってありがとうございましたm(__)m
またのお越しをお待ちしております♪