トラウマと関連が深い状態像に
「再演」などがありますが、
それと同じ関連性がある反応として、
今回は「迎合」を取り上げたいと思います。
「迎合」という言葉自体は心理用語ではありません。
一般で使う言葉なので、心理学的な定義があるわけではありません。
ちなみにグーグル辞書で「迎合」を調べたら
「自分の考えを曲げてでも、他人の意に沿って気に入られようとすること」
と出てきました。
そう!
「気に入られようとする」
のが迎合なんです。
「やりたくないのにやる」とか「合わないのに合わせる」という過剰適応の範囲をやや超えた状態が「迎合」だと私は捉えています。
それで、心理学用語でも精神医学用語でもないんですけど、
成育歴にトラウマがある場合、
「迎合」は多くの方々に認められる重要なテーマ
であると感じます。
なので、今回は、「迎合」について整理したいと思います。
目次
心理学的解釈のいろいろ
繰り返しになりますが、「迎合」という言葉は心理や医学の専門用語ではありません。
それでも、やはり人の心を理解する上で切り離せない状態を示したものですので、
心理療法関係でも何人かの先生方が「迎合」について解釈を示しています。
「言葉の解釈」なので、すごく掘り下げられているわけではないんですけどね。
例えば、ポリヴェーガルのポージェス博士は、「迎合は、機能的な社会交流」とし、比較的プラスの面を強調しています。
けれど、そもそも「迎合」という言葉は「自分の意に反して」という意味が含まれていますので、
それを加味するなら「監禁下での適応」という非常に特殊な場合と考えられているようです。
また別の先生は「迎合する場合、相手に対して嫌悪がある」と指摘しています。
私は、この「迎合する場合、相手に対して嫌悪を内心で抱いている」という解釈は共感しました。
私の解釈
私の「迎合」の解釈は、
「本当は多大な不快感や違和感を抱いているのに、そのことを気づかずに理想化し、
自分を下の立場に置いて、向こうから認められようとする」
ととらえています。
こう書いてみると、BPD(境界性)の特徴にも当てはまる気がするし、
機能不全家庭での子どもが親に対して無意識にしている反応にも思えます。
「過剰適応」との違い
「迎合」は「過剰適応」と重なる面がありますが、
「過剰適応」よりも自分の感覚や意志に反して逆の反応を示すものだと捉えています。
無意識に「迎合」をしていると、
自分の本心を抑え込んで知らないまま、逆の行動をすることになるので、
心身に大きな傷を残す可能性が高いです。
自分の意志に反し、感覚もなくし、本来は近づきたくない相手に自ら近づいてしまうので、なんとも表現しがたい心の傷になってしまいます。
そのため、気づくことが大切で、「迎合している」と気づいたら、
本心を見つけられたことになりますので、それだけで本当にだいぶ変われるように感じています。
なぜ「迎合」するのか
日本は、敗戦後、欧米に対して迎合せざるを得なかったという歴史的背景があります。
加えて、国民全員で信仰する宗教がないので「世間体」や「常識」「普通」を生きる指針にしたと考えられています。
そこに「協調性」「和を重んじる」という古来の日本文化が相まって、
「場を乱さない」「年配者や親は敬うのが常識」という根深い価値観の中で私たちは育ちます。
そのため、嫌なものを嫌とは言えないし、
それ以前に疑問すら抱くことができないこともたくさんあります。
そのため、私たちの人生と「迎合」はいつも隣り合わせのように感じています。
トラウマがあれば「迎合」はもはや必須スキルともいえるのではないでしょうか。
そこで、「迎合する状況」を整理してみます。
そこに居なければならないとき(どうしても必要な場合)
「迎合する」とき、「そこに居なければならない」という状況が必須かと思います。
先に述べたように、「迎合」を理解するには「子どもと家庭」をイメージするとわかりやすいと思います。
ここに「虐待」が加わったら言うまでもないですよね。
「子ども時代」のような長期間でなくとも、
「人生上、今、この環境を過ごす必要がある」とき、なんとかその過程を通過するために、
実は強い不快感に見舞われていたとしてもなかったことにして「迎合」することでやり抜きます。
評価される立場のとき
「そこに居なければならない状況」に加えて「評価される立場」が加わると、
「迎合」の必須条件が揃うようにとらえています。
つまり、自分が「下の立場」ということです。
その場に対する決定権がなく、その後の自身の処遇も自分以外の周囲次第で大きく変わってしまう。
これは恐ろしい状況ですよね。
「その環境を通過することが必要なとき」と「評価される立場のとき」が揃うと、
内心は嫌でも周囲が間違っていても「迎合」することが生き抜く唯一の手段になることがあります。
実は軽蔑しているとき
冒頭で書いたように
「迎合するとき、相手に対する嫌悪を秘めている」という解釈に、私は共感しました。
「迎合」というのは、ネガティブな意味合いを含んだ言葉です。
そのネガティブな意味は、確かに
「嫌悪」や「軽蔑」「不信」なんだと感じます。
「そこに居なければならず、立場が下だから、なんとかその時期を通過するために、上の者たちに気に入られようと好意をしめす」
という「迎合」は、
「本当は相手は信頼するに値しないと無意識で判断した」ともいえます。
そんな人々が自分の行く末を握っている状況なわけです。
これぞ、この世の理不尽!!
「迎合」の背景は実は大きなテーマであり、
こんな理不尽に気づいてしまったらやっていけないので、
迎合するしかないのだと思います。
自分の理解につなげる
「迎合」に限らずですが、
ご自身の反応を適切に理解することは心身の健康に寄与します。
そのため、今回のテーマである「迎合」も、それが起きる条件を整理したうえで、さらなる自己理解につなげたいと思います。
適応能力
これはよく言われていることですが、
「過剰適応」と同じように「迎合」も適応能力の高さがあるからできることです。
その場の雰囲気や上下関係を把握し、自身の不快感を消し、できる限り痛手を少なくするために「迎合」する。
一度にいくつもの判断をしたうえで、自身の行動に反映させているという高度な適応能力といえます。
必要性がある
そして、「迎合」というのは、内心では強い不快感、嫌悪感、恐怖を感じ取ったから起きる反応ですから、
それと反対の「気に入られよう」「自分はこの場が好き」と思い込んでまで、適応するなら、
そうするだけの必要性がある
ということだと思います。
何も、無意味なことに自分を偽り多大なストレスを裏で抱えたりはしないですよね。
「迎合」するには、そうするだけの必要性がある対象だった可能性が高い。
意味もなく、必要性もなく意に反した言動をしていたわけではないと思います。
好きでもないことに、本当は嫌悪していることに「媚びを売っていた」とすると、
自分のことをすごく嫌いになってしまうことがあるかと思います。
でも、ご自身の反応は、ご自身の役に立つためにある。
後から考えれば「あんなところさっさと辞めればよかった」とか「なんであんな酷い人を大好きだったのか信じられない」とか思うけれど、
そのときは、その時期、迎合することで通過する必要性があった。
迎合によるストレスは将来の自分に任せて、
その場は無理してがんばってくれた過去のご自身がいるのではないかと思います。
見抜く力
さきほど述べたように、「迎合」するには、
その場の状況把握、上下関係の対人関係の把握、自分にとっての必要性や今後の行く末など、
いくつも「見抜く力」が発揮されています。
さらに「迎合した」ということは、「無意識に本心を隠し、好意を持っているかのように気に入られようとした」のであれば、
本音で向き合う価値はないと判断した
とも言えます。
「下の立場に率先してなったら、この場は円滑に回る」ということは、
「周囲は信頼するに値しない」「対等よりも上に見られたい人たちなのだ」と
無意識的に見抜いたのかもしれません。
自分の本心や感覚に反していると、何をしてもモヤモヤしてしまいます。
その不快感を軽減しようと、
「なんであんなこと言ったんだろう?」「自分の言動は適切だっただろうか?」「考えても仕方ないとわかっているのに相手がどう思ったか気になって仕方がない…」
という自己否定や自己チェックという「慣れた思考」が繰り返され、さらにしんどくなってしまう…。
そんなとき、一度、
「自分はすごく嫌なことをやり切ったのかもしれない」
とちょっとだけ考えてみてほしいなと思います。
↓すごく久しぶりに、「日記」ではないブログを書けた!!
↑皆様の存在を感じられる一押しをぜひ!!
ようやく春が来るようですね(*^_^*)
寒暖差や花粉などで体調が乱れがちになりやすいと思いますので、ご自身にやさしくお過ごしください。。
最後までお付き合いくださってありがとうございました!
またのお越しをお待ちしております(^^♪