「“感情”に良いも悪いもない。全ての感情を大事にしましょう」
というようなフレーズは見聞きしているのではないかと思います。
その通りで、
「感情」は「自分へのサイン」であり、時には「心の栄養」にもなり、
自分に合った方向へ導いてくれるものであります。
ただ、ネガティブな感情はときにご自身を苦しめることになってしまうこともあります。
「認知の歪み」で知られる『認知療法』では、
「感情は考え方(思考)が起こす」として、思考の変容を行うことで感情の調整を試みます。
一方、トラウマケアで有名なソマティック(身体的)な心理療法では、
身体反応が感情に繋がると考えます。
そして「思考」は「自分を説明するために使うもの」と考えます。
どちらの観点も興味深いですよね。
「感情」は常に注目される機能である表れなのだと思います。
ご自身に合う考え方や方法を取り入れていけたらと思います。
この記事は、それぞれの「感情」の基本的な役割と、
トラウマが関連した場合との2つの視点から理解することで、
より「感情」を味わえるようになっていけたらと思います。
目次
怒り
「怒り」は、このブログでも単独で何度か取り上げているように「ネガティブな抱えづらい感情」の代表ですよね。
他の記事で詳しく述べているように、「怒り」は抱え方が難しいですが、とても重要な感情です。
「怒り」の深い理解についてご興味がある場合はこちら→『遅れた怒りの意味』をお読みいただければと思います。
今回の記事では、「怒り」が持つ役割について、よく起きる“身近な”怒りについて述べ、
その後、トラウマの観点から「怒りが抑圧された場合」について理解していきたいと思います。
大切にしていること
「怒り」の発生は、「交感神経」の活性化によるものです。
「交感神経」とは「戦うか逃げるか」と言われる「戦闘モード」に身体がなったときに活性化する自律神経です。
この「戦闘モード」になり得る代表的な状況が「自分が大切にしていることを軽んじられた」ときです。
「敵から大切なものを守らなくては!」と思ったら「戦闘モード」に入り、
同時に覚醒による怒りが沸くのは自然なことだとイメージできるかと思います。
この「大切なもの」は物質に限りません。
例えば、「職場でいい加減な人にイライラする」というような日常的に「カチンときた」というとき、
「仕事はちゃんとする」という価値観を大事にしているからであることがあります。
他にも「“理不尽さや不公平さ”を目の当たりにすると怒りが沸く」というようなとき、
他者の傷つきに心を痛める優しさが強く、
「苦しい人がちゃんと救われるべきだ」という価値観を大切にしているからであることがあります。
信念
先ほどの「大切にしていること」の延長になりますが、
自分が大切にしている価値観としての最高峰に「信念」があります。
よく「白黒にならずにグレーを持とう」とされますが、
ご自身の「信念」であれば「白黒」のままで良いのだと思います。
自分の「信念」と反することに触れると、「大事なことを蔑ろにされた」となり「怒り」を生じます。
これは、自分の信念を再確認する機会となり、改めて「自分のあり方」を自分自身で肯定できることに繋がることがあります。
「我慢」の矛先
「あの人だけズルイ!」という思考によって生じる「怒り」は、
「自分は我慢しているのに、我慢しない人が許せない」という鬱憤によるものであります。
これは意外と根深い問題を起こしています。
例えば、年配者が若者に対して「親は大切にするもの」「家事や育児は女性がするもの」というような思考を押しつけたり、
「昔はもっと厳しかったんだからこのくらい我慢しろ」と根性論で若輩者を叱責するなど、
“前に我慢した自分の体験を持ち出して同じことを強いる”という形で現れます。
この根元は、「自分より強い者に刃向かえなかった代わりに、弱いものへパワーが流れる」ものです。
「我慢」というのは行き過ぎるといろいろな方向に多大な弊害を生んでしまうのですよね…。
もし、「ズルイ」というような思考による「イライラ」があったら、
それを生じさせたかのように思える他者ではなく、
「それだけ我慢しているんだ」とご自身に思いを馳せてみてほしいと思います。
その“我慢”は、許容量を超えているから怒りとなって他へ流れようとあがいているのかもしれません。
一時、八つ当たりのように“他へ”流しても、根本的な「我慢」は変わっていませんので、解消はされません。
ですので、「キャパを超えた我慢」が“今”のことであれば、減らせるように根本原因にアプローチできるといいと思います。
もし、それが“かつて”満たされずに我慢するしかなかった昔の自分が触発されているのであれば、
トラウマケア的なアプローチで、
「よく我慢したね」「本当は○○してほしかったね」と過去の自分を今の自分が手当てしてあげてほしいと思います。
トラウマとしては
他の記事でも「怒り」の重要性に触れていますが、
トラウマ的な出来事、特に、性犯罪やいじめなどの人的な被害は、
自分の尊厳を取り戻すために、
後からでも「しっかり怒りを感じる」という過程がとても大事だとされています。
「後からでも」と書きましたが、逆にいえば、『遅れた怒りの意味』でも述べているように、
「その場で」タイムリーに怒りを感じることは不可能であることが多いともいえます。
そのため、怒りを感じられる段階になったときにはけっこうな量が蓄積されている状態がほとんどです。
「怒り」の抑圧は「自己否定」へ
先ほどまで述べた「日常的に感じる“カチンとくる”」といった浅いものでも、扱いに困ることがあるくらいなのに、
トラウマになるほどの出来事に対する怒りというのは、
「この怒りは他者にも自分にも危険である」と反射的に判断され、
自分の内に抑えこまれることが多いとされています。
「ここで怒りを感じたり出したりすることは危険」と反射反応が起きると、
その怒りは直ちに「恐怖」となります。
この「怒りの抑圧」が長い時間になると、
「怒り」「恐怖」は「自己嫌悪」「恥」「自己批判」という内向きの“攻撃性”に姿を変えます。
臨床をしていると、その人から語られる内容からはトラウマ的なものは強くないように感じ、
今抱えている悩みを一般的な方法で軽減しようと試みても、何年もほとんどよくならないというケースが稀にみられます。
長きに渡って継続される抑うつと自己否定感がどうやっても軽減されず、
パワーが少ないためにできることが限られている状態が長期間続く場合、
原因は、「怒りの抑圧」であることがあります。
「怒りを抑え込み続ける」ことは、膨大なエネルギーを消費すると指摘されています。
「怒りと抑うつの根っこは一緒」といわれる理由は「外に出すか内に向くか」という違いであるだけだということです。
もし、長い期間、自己否定感や抑うつ状態が思うように改善されないとしたら、
「かつて出せなかった怒り」の存在があるのかもしれないと考えてあげるといいかもしれません。
本能的な部分で「自分の怒りは強大であるために向き合うのは危険で怖い」と思っているかもしれません。
それは当然で、“かつては”出すことが許されなかった、感じることも危険であったので、
出さなかったことも充分に感じられなかったことも適切な対処だったことは間違いないと思います。
ただ、今は、きっと当時とは状況が違っているのではないかと思います。
今なら、少しずつ、「自分に生じた怒りという大事な感情」に触れることができるかもしれません。
「自分の怒りに対する漠然とした恐れ」そのものも、当時のトラウマ反応であり、
“今は”そこまで恐れなくても大丈夫かもしれません。
不安
「不安」も、生きるために必要な感情であるとされています。
「不安」は「恐怖」とも関連が深いです。
「不安障害」などの記事で詳しく述べていますが、
ここではより基本的な部分を整理したいと思います。
「わからない」
「不安」は基本的に「分からない」ときに生じます。
「不測の事態に備える」ための感情としても有名ですよね。
このように「まだ生じていない危険に備える」ことが「不安」の主たる役割になっています。
ただ、そこからそれぞれの「個別性」に話を深めたとき、
「分からない」こと全てに「不安」になるわけではありませんよね。
そもそも「分かっていない」ことすら気付いていない事柄は膨大にあるでしょうし、
「分からないな」と思っても、それが必ずしも「不安」を連れてくるわけではないと思います。
そう考えてみると、「不安」があるということは、
「わかりたい」「知りたい」という気持ちがあるということ、
ひいては「自分にとって大事なこと」という積極的な気持ちが根底にあるがゆえの「不安」であることがあります。
「意欲」の裏返し
今の「不安は積極的な気持ちが根底にある」ことの延長として、
「“不安”は“意欲”の裏返し」と捉えられることがあります。
「やりたいこと」があるから、「失敗」が怖くなるし、「分からない」ことが不安になる。
大事なことだからこそ、緊張したり不安になったりする。。
そうだとしたら、「不安」に対して「それだけ大事なことだから不安にもなるな」と理解を示してあげると、
「やりたいこと」を実行していく助けになるかもしれません。
トラウマがあると
「基本的信頼感の欠如」の記事で詳しく述べていますが、
幼少期に「安全感」が得られないと、慢性的にたくさんの「不安」を抱えることが珍しくありません。
その由来は、無力で非力で未熟な「子ども」ですから、世界のさまざまなことに不安を感じるのは何もおかしいことではないですよね。
これは、トラウマがある場合に限らず、先さきほどの「わからない」の項目に繋がりますが、
例えば比較的敏感で聡明な子であると、「どうして夜が暗いのかわからない」「雷や地震がとてつもなく恐ろしい」といったような
「世の中の仕組みをまだ知らないことによる“不安感”」を抱くケースは多々見受けられます。
トラウマによる「基本的信頼感」の欠如による「不安感」も、
「わからなさ」と「1人ではどうにもできない」という強烈な恐怖心が根本であると考えられます。
そのため、「知る」ことが不安の軽減に効果があります。
「自己理解」がその代表です。
さらに可能であれば「概ねの見通し」を持てると、より安心感に繋がると思われます。
罪悪感
「罪悪感」とは「自分が悪いことをしているorした」という自己反省的な感情です。
「罪悪感」は基本感情というより、環境の影響を受けて後天的に生じるものです。
「罪悪感」の捉え方については、まず「トラウマ由来」から述べて、次に「通常の罪悪感」の役割を整理していきます。
トラウマ由来では
「罪悪感」は、生まれたときには無い感情で、後から生じるものです。
「罪悪感」は曲者で、親や世間から“植え付けられた”ものであることがほとんどです。
そのため、基本的に「罪悪感」が生じたら、
「罪悪感」の言いなりにならず「罪悪感をなくす行動をすると誰に都合が良い?」と聞いてみましょう。
答えが「自分」ではないのであれば、「罪悪感を抱きながらも行動はしない」ことを続けていくことが適切であることが多いです。
また、「家事をしないといけないのにできない」といったときに生じる「罪悪感」も、ある意味でやはりトラウマ的反応だといえます。
「休んでいてはいけない」
「自分の役割を果たさなければここに居てはいけない」
というような強迫的な思いが根底にあることは珍しくありません。
「働かざるもの食うべからず」という標語に表れているように、
大なり小なり、私たちは社会的に望まれていることをしなくてはいけないという価値観を抱いていると思います。
なので、このような「罪悪感」が生じることそのものは、当然のことであって、個人の課題ではない側面もあると思います。
「休んでいても罪悪感で苦しい」場合には、
「やってしまったほうが罪悪感がなくなりよっぽど楽。動かないよりも家事や仕事をやったほうがよっぽど楽なのに、
楽になるためのことすらできない状態なのだ」
という視点をぜひ持って欲しいと思っています。
「休んでいる方が楽」とは限りません。
「罪悪感」はとても苦しい感情です。取り除けるものなら取り除いた方がよほど楽ですよね。
でも、そのための行動すらとれないほどに、今は休まなければならない状態なのだと自分自分を理解してあげてほしいなと思います。
健全な役割
一方で、「健全な罪悪感」には「責任感」という役割があります。
「自分の役目を果たしたい」という表れでもあり、それができなかったり失敗したりしたときに、
「失敗から学ぶ」ことを「罪悪感」は可能にしてくれます。
また、例えば「働いていないことに罪悪感を感じる」とき、それがトラウマ由来であることもありますが、
「元気であれば社会にコミットしたい」という積極的な意欲の裏返しであることがあります。
そうであれば、「今は休むときだけれど、何かやりたいという意欲を持っているんだ」と、
そのポジティブな気持ちをしっかり拾ってあげてほしいなと思います。
適切にポジティブ性を拾えると、
不思議なことに例えば「仕事に限らなくていい」などといった新たな気づきを得ることができ、
ボランティアやSNS発信などの何らかの活動という新しい選択肢が浮かぶことがあります。
「悲しみ」
「悲しみ」は対人関係や向社会的行動と関連が深い感情です。
私たち人間は「他者と良好な関係性を築く」ことが子どもの頃から必要ですので、
「誰かがいなくなって悲しい」という感情があることは、
「愛着関係を築く」ことを強化する役目になります。
「悲しみ」があるから「他者との関わりを求め」、社会的繋がりへの橋のようになります。
人と自分を繋ぐため
「悲しみ」を生じさせる代表例は「親しい他者との別れ」かと思います。
「悲しみ」を埋めようとすることで対人希求行動に繋がり、他者と関係性を築けるといわれています。
一方で、「深い悲しみ」を抱えた場合には、
社会から遠ざかり、内にこもる特性をもつ感情でもあります。
そのため、「大切な人の死」に代表される「悲嘆」のときのケアの過程では、
「対人のあり方」がそれまでとはやや異なる形になることが通常です。
具体的には、それまでは休日には友人と積極的に会っていたとしても、
「悲しみ」が生じれば、自然と距離をとり、1人の時間を持つことで癒される部分があります。
けれども、「いつも1人」では、「社会からの断絶」を感じさせて「抑うつ」を深めてしまうことに繋がってしまうため、
「ごく少数の信頼できる人」とは会っていくことが癒しを促進します。
これがカウンセリングのようなサポートである場合もあります。
トラウマがあると
「悲しみ」という感情は、「不安」「恐怖」「怒り」などの命の危機に直接関わる感情ではありません。
そのため、「快―不快」という未分化な感情状態から時間をかけて耕されて細分化され、豊かになっていくという感情の発達の中で、
ある程度細分化されてから感じられる感情であると思います。
だからこそ、「“当時は”悲しいと実感できなかった。わからなった」という状態は珍しくなく、
その都度「悲しみ」が知らず知らずに積み重なっていて、
あるとき、決壊を超えるように雪崩になって溢れ出てしまうということがあります。
私の個人的見解ですが、「悲しいな…」としっとりと1人で感じられるとしたら、それは健康的な状態であるような気がしています。
「悲しむ」ためにはある程度の安全感を持っている状態で、自然に自分に共感的になることで味わえる感情のような気がします。
「悲しみ」をしみじみと実感できることは、けっこうハイレベルなことだと思っていて、
感じられなくてもおかしいことではないし、
遅れてでも感じられたのであれば、間違いなく心の傷は癒されてて、
以前よりも感情が豊かになっているのではないかなと思っています。
「喜び」「楽しい」への開き
「怒り」や「不安」などの負の感情は苦しいですよね。
苦しいだけでなく、状況によってはそれを感じることすら危険になって抑圧するしかなかった場合もたくさんあります。
このように、何かの感情を一部でも抑えこむと、
「嬉しい」「楽しい」などの幸せに欠かせないポジティブな感情も一緒に抑えこまれてしまうといわれています。
その結果として、無気力や抑うつ状態になり、生き生きとした感覚に乏しくなってしまいます。
回復過程では、まず「怒り」「不安」などの苦しい感情が先に出てきます。
そのため、「最近怒りが沸く」「焦りを感じる」としたら、
それは場合によっては「抑うつ」「無感覚」状態から脱し始めた回復の表れであることがあります。
しんどいですが、抑えられた「負の感情」を少しずつ出していくと、
その分、「喜び」や「嬉しい」などのポジティブな感情を感じられるようになっていけます。
さらに「感情を抑え続けることはかなりのエネルギーを消費する」と指摘されているため、
抑圧に使っていたエネルギーが減っていければ、本来のやりたいことに使用できるようにもなります。
「適度に感情を感じる」ことを助ける方法の1つが「自分を理解する」ことでもあるのだと思っています。
↓押してくださると寝子がしみじみと喜びを味わうことができます!!
↑いつも応援を本当にありがとうございます!!
皆さまの一押しごとに寝子の感情が耕されています!!
人の心身の仕組みはいまでも謎ばかりですが、
その中でも「感情」は複雑なのか単純なのか、はたまた身体反応なのか、非常に興味深い機能だと思います。
いずれにしても、「自分の気持ち」はできるだけそのまま受け取って大切にしたいものですよね。
「そのまま受け取る」ことが意外と難しいのも、「感情」が持つ味わいなのかもしれません。
今日も最後までお付き合いくださってありがとうございました!
またのお越しをお待ちしております(*^_^*)