今回は『「自分のせい」と自責するのはなぜ!?』というテーマを深掘りしたいと思います。
以前に『「自分が悪い」と自己否定してしまうメカニズム』という記事を書き、
心理作用の基本的な部分を整理しました。
今回は、もう一歩踏み込んで、
「他者や環境のせいにすることに抵抗が強い」「自分のせいだと思った方が楽」という、
まるで自分で選んでいるかのような「“自分のせい”にする思考」に注目して、
トラウマとの関連を理解していければと思います。
目次
無秩序な環境を生きるということ
今回テーマにする「自分のせい」という思考は、
「そうなったきっかけがはっきりしている」というものではなく、
「気が付いたらそう考えるようになっていた」という場合です。
そうなると、当然ながら子どもの頃のトラウマの影響が推測されます。
そこで、機能不全家庭をトラウマの代表例として設定し、
子ども側になぜ「自分のせい」という思考が根付くのか、一歩踏み込んだ整理をします。
一般に「機能不全家庭」とされる「親が親の機能を果たしていない」という事態の深刻さの1つは、
「一貫性のなさ」であると考えています。
「いつも怒るわけじゃない」「私に冷たいけど他の人には優しい」「怒るポイントがわからない」「どう振舞ったら認めてくれるのかわからない」「言われたとおりにしたのに怒られた」etc。。
この状況は、子どもにとって、
戦地になんの武装もせずに身一つで投げ出されたのと同じです。
それでも、他を知らない子どもにとって、置かれた環境が世界の全てです。
そのため、この無秩序な世界をなんとか生きようとします。
「混乱」を自分で治める
絶対的な存在である親が無秩序であると、
子どもは混乱してしまいます。
「混乱」という反応は、私たちは意外と耐えられないようにできていて、
ただちに内心の混乱を整理しようとします。
例えば、学校で楽しかったことを家で話したときに「調子に乗るな」と怒られたとしたら、ショックを受けますよね。
予想外の反応に「驚き」、実際は深く傷ついていても、その内面の驚きの感覚にそのまま居ることはできないものです。
黙るなど、すぐに次の行動をとるしかありません。
この例のように、「不意に傷つけられた」場合、その衝撃をちゃんと消化できないまま次の傷つきを重ねてしまうので、
目に見えない「混乱」は募っていってしまいます。
このような「混乱と傷つき」に対し、
子どもだった自分にできる内面の治め方は「自分のせい」として、無理にでも納得することなのだと推測できます。
子どものころから、本来は一番安心できる場であるべき家庭で「混乱」にさらされていたとしたら、
それを自分で治めるためにはどれほどのエネルギーを要したかと思います。
「期待して裏切られた」という傷の多さ
私たちが深く傷つくのは、対人関係です。
それも、「怒られた」というものより「喜びや楽しみを否定された」「勇気を出して頼ったのに返って傷ついた」という、
ポジティブな能動性のある関わりに対する否定的反応に、より深く傷つく傾向があると捉えています。
機能不全家庭で育つと、「ポジティブな気持ちの否定」をたくさん受けていることが多いです。
好意や安心、期待をお互いに渡したり受けたりすることができないことは、子どもにとって根本的に安全を感じられない深い傷になります。
そのうちの1つが「親に期待して裏切られた」というものです。
「子どもが親に期待するな」というほうが無理な話ですので、親にサポートを期待するのは当然です。
それでも、機能不全家庭の子どもであると、
かなり遠慮して、我慢して、やっと親に自分の気持ちを伝えてみたり、どうしても叶えたいことをお願いしてみたりといったように、
「満を持して、親に頼った」ことがたびたびあります。
けれど、それが裏切られてしまったという非常に傷つく体験を重ねている方が少なくありません。
「親が喜んでくれると思ってプレゼントを渡したのに、不機嫌にされた」「わかってほしくて本心を打ち明けたのに無視された」「約束したことを何度も忘れられた」etc。。
このような傷つく体験をしたとき、「自分は悪くない。相手のせい」としても、その環境の他に行き場がなければ、
外に出すことが許されないモヤモヤが増大して苦しみが増すだけになってしまいます。
そのため、「自分のせい」として、これ以上自分を傷つけないために「人に期待しない」癖がついていきます。
さらにいうと、親に頼って傷ついたこと自体も「人に頼った自分が悪かった」と抱え込むこともあります。
本心と逆の振る舞いをする
ご自身の率直な感覚を表現すると傷つくという体験を重ねていくと、
無意識のうちに「本心と逆の振る舞いをする」適応策が身についていきます。
「嬉しい時ほど喜ばないようにする」「不快なときほど楽しそうに振舞う」「忙しいときほどヒマだと言う」「好意を持つ人には好意を隠し、嫌いな人ほど関わっていく」etc。。
このように、本心とは逆の言動を表では出すようにすることで、ご自身を傷つきから守るようになります。
ただ、無意識ですので、ご自身は内心と言動が一致していないとは気づきません。
意識的にはわからなくても、
体感は言動との不一致ゆえ、モヤモヤした不快感が常に伴います。
この「なんともいえない不快感」を、さらに無意識に何とか整理しようとした結果「自分が何か間違ったことをした」という答えになり、
ご自身の言動に対して「自分が何か不適切なことをした」という負のループが繰り返されるようになります。
表面的な言動を「直さなきゃ」としますが、不快感の根本原因は「本心と言動のギャップ」ですので、
社会的行動はちゃんとできていたとしても「いつも苦しい」ことになります。
そのため、対人関係は負担が非常に大きいものに感じられるのも無理もないことです。
「自分のせい」が落ち着く理由
これまで述べたように、環境や他者のせいにすることに強い抵抗を持つようになり、
「自分が悪い」が自動的な反応となっていきます。
消極的に「自分が悪い」と思うこともあれば、積極的に環境のせいにすることを避け、自分に原因を置く場合もあります。
まず、「どうしてなのか」と考え悩む状態は「苦しいから」です。
何が原因であれ、「自分のせい」等と考える際に、
同時に「ああ、私はストレスを感じてるんだ」と気づいてみてほしいと思います。
その上で「痛み」を耐えるには、「耐えるエネルギー」を生み出さなければいけません。
そのエネルギーになる1つが「自分のせい」という意味付けになることがあります。
どうして、苦しいのに「自分のせい」とするのか、さらに理解していきたいと思います。
「絶望」を防ぐ
日々を過ごすエネルギーを生み出すためには、現実に気づいてはいけない場合があります。
例えば、自分がまだ幼い子どもで、大けがをしたとしたら・・・。
大人であれば応急処置を調べることも自分で病院に行くことも選択肢に持てるでしょう。
けれど、子どもであると、手当の方法も知らないですし、病院へ行く術もない、お金もない…。
つまり、選択肢がないのですよね。
子どもに与えられた選択肢は「我慢する」か「身近な大人に助けを求める」か、しかありません。
この絶対的な弱者の立場で「自分が悪いんじゃない。環境が悪いんだ」と本当に気づいてしまったら、何が起きるでしょうか。
絶望
だと想像します。
「絶望」してしまったら、生活を続ける力は生まれなくなるでしょう。
一方で、これは意識的に「絶望するかしないか」を選べるものではありません。
生き物として、本能として「生きなければ」と判断した結果、それに向けて思考や行動を合わせるのだと思います。
子どもは、絶対的な弱者で身体的にも精神的にも発達途上ですから未熟で頼りない状態です。
もちろん、知識や経験も少ないですので、わからないことばかりで不安や恐怖も抱えています。
それでも、日々、生きなければいけません。
さらに、トラウマを抱えた状態で、子どもの身で日々の身支度やクラスメイトとの関係などをこなすのは大変なことです。
それを「大変だ」とも思わずになんとかやっていくには、絶望するわけにはいかないので、
環境の異常さに気づいてはならないのです。
そこで、何事も「自分のせい」と思うことで、絶望を防ぎ、わずかでも日々を過ごすパワーを生み出します。
「希望」になる
人は希望がなければ生きていけません。
それくらい精神的なエネルギーが重要に造られているのが人間だと思っています。
つまり、「自分のせい」と思うことが、かすかな希望になっていることがあると推測します。
この「自分のせいにすることで生きる希望をわずかでも抱く」という作用は、
無秩序な環境や大人たちの中で、唯一、
この世に秩序があるように思える「捉え方」なのではないかと思います。
まだ右も左もわからない子どもが、適切な養育を受けなかったらなお更に、なんのルールもない世界をただ生きろというのはあまりにも恐怖です。
そんな混乱した環境を生きるために生み出した思考なのだと思います。
「合わせる」ことで強化される
まだ子どもで、自分が実際はどう感じ、どうしたいかも明白ではない中で周囲に合わせていると、
常に自分の感覚を二の次にする、
つまり自身の率直な感情を否定することになります。
これは「自分の感覚はどこか間違っている」と思うことになります。
このように「合わせる」ことで、ご自身が生きる世界に秩序をくれる「自分のせい」という思考はより強化され、
何かが起きた際に真っ先に浮かぶ思考となります。
「変われるのは自分だけ」
このような日々の体験は、
「周りは変わらない。変われるのは自分だけ」という世界観を確固たるものにします。
周囲に期待しては傷つく経験を重ね、自分が周囲に合わせる日々を送っていることを思えば、当然ですよね。
本当に、「変われるのは自分だけ」な日々です。
さらに「人のせいにするな。自分が変わろう」という思考は社会的に推奨されていますのでなおさらです。
ただ、能動的なフレーズとは裏腹に、
感覚としては「漠然とした不快感(恐怖)」を常に抱えていますので、そのような自分を肯定することはできません。
「自分に自信をもつ」には、自分の活動に対して「良い感じ」というポジティブな感覚が伴う体験を重ねることで可能になります。
そのため、実際は過酷な環境でものすごく適切にがんばっていたとしても、
それに対して苦しみの方が勝っていると、自分を肯定する感覚が持てないのは無理もないのですよね。
この点も、「自分はダメだ」という自己否定感を強めてしまう要因の1つであると感じます。
役割
ここで、改めて「自分のせい」と思うことがどんな役目を果たしてくれているか、
光を当てていきたいと思います。
自分も他人も守る
「自分のせい」という反応は、自分を叱咤することで、
うっかり他者に期待して傷つくことのないように警戒を続けることで、
ご自身の傷を増やさないように懸命に守る役目を担ってくれています。
同時に、「自分のせい」は、基本的に他者に対する共感的理解を伴います。
前提が「向こうが悪いわけではない」という出発なので、他人を傷つけることを防いでいます。
これは、どうしても必要な対人関係を維持することをこの上なく支えてくれているように思います。
対人関係でトラウマを負っているにも関わらず、対人関係をゼロにはできない現実の中で、
自分がさらに傷つくことを防ぎ、同時に、他人を傷つけることもしないように、
絶妙なバランスをとってくれている機能が「自分のせい」という思考なのです。
そう考えると、これは「思考の歪み」ではなく、
トラウマを抱えたご自身と外の世界をつなぐ「バランサー」といえるかもしれません。
数少ないエネルギー源
人が生きるためには気力が非常に重要です。
人は、気力さえあれば体は倒れてしまうほど動かすことができるのです。
逆にいえば、気力がなければ、倒れるほどに体を動かすエネルギーは作られません。
そのため、心の傷が深いほど日々「起きているけど何もできない」という状態になります。
そのような状況で、「自分のせい」というのは数少ないエネルギー源になるように感じます。
「自分の言動を変える」という少なからずの意欲や、
今いる環境に対する違和感を間違いだと思うことで「そこまで酷い環境ではない」と一時期の安心感を得られるなど、
その場を生きるエネルギーになってくれていることがあります。
行動規範
冒頭に「無秩序な環境」と述べましたが、
まだ自分自身の感性もはっきりしない状態で、何が正しいか間違っているかもわからず、
「秩序がない」世界にただ身をおくことはできません。
そこで「自分のせい」「自分が悪い」と思うことは、秩序がない世界に1つの指針になってくれます。
「どう行動したらいいかわからない」という混乱の中で、「自分のせい」という思考は自分の行動を模索する指針になってくれます。
緩和するには
「自分のせい」と考えることは何も悪いことなどありません。
それは強調したいところです。
ただ、この記事で取り上げた「自分のせい」を抱えている場合、苦しみも深いことと思います。
悩み考えるのは「苦しいから何とかするために行う」という原則を忘れずに、ご自身を理解していきましょう。
その上で、筋が通っていない環境下で「絶望を防ぐ」ために自分に原因を置くわけですので、その自己責任感はそれこそ命を背負っています。
だから強固で、ただの反省の範囲ではなく、苦しみに変わってしまうほどになります。
そのため、なんら悪い反応ではないけれども、やや緩和できたらいいかもしれないということで、対処法を考えていきます。
自分の味方だと気づく
ここまで述べたように、今は苦しみになっていたとしても「自分のせい」と考えるに至った経緯は、理解できるものなのではないでしょうか。
ただご自身を苦しめるために出てきたものではありません。
「自分のせい」という思考は、ご自身が今よりはるかに若く、弱く、何も知らない中で、
圧倒的に強い大人たちの中で生きるために表れてくれた反応かもしれないのです。
そして、実際に、長い間、この思考のおかげで、なんとか他の世界を見ることもできるくらいまで支えてくれたのです。
ご自身を支えてくれている一部だと、「この思考は自分の味方なんだ」という思いで気づいてあげられると癒しに繋がるように思います。
強さはストレスに比例する
「自分のせい」という反応にも、程度があると思います。
「自分のせい」と思い悩む反応の強さは、その時のストレスの程度に比例すると意識してみましょう。
ポイントは、「自分のせいと強く思うときほど自分のせいではない」という点です。
「自分のせい」というのは小さいころから身に着けた生き抜く術です。
ストレスがかかればかかるほど、この反応は強くなり、
自分をなんとかすることでストレス事態を切り抜けようとしてきました。
そのため、「自分のせい」がいつも以上に繰り返されるとしたら、
今、それだけストレスがかかっているという証です。
それでも、すぐに「環境が問題」「他の誰かが原因」とは思えないかもしれません。
けれど、「自分のせいなのか否か」を反芻してしまうとしたら、
少しその反芻から距離を取るイメージをして、
「何かストレスが強くかかっているのかも」という視点で、最近の状況を見渡してみてください。
最近の状況をやわらかく振り返る中で、少なからず外的なストレスに思い当ったら素晴らしい。
「ああ、あのことがけっこう嫌だったんだな」「今思うと不快だったんだな」
こんな風に見つけてあげるだけで、「自分のせい反応」は少し楽になり、いつも作動しなくても大丈夫だと安心していけるかもしれません。
ギャップの現れ
今述べた「負のストレス」と逆の場合も起こります。
「真逆の反応をする」と述べましたが、
「何か変なことをしたのではないか」と自身の行いを否定的に反芻する場合、原因は負のストレスとは限らず、
「楽しかった」「嬉しかった」からこその反動であることがあります。
これまで述べたように、基本的に「自身の本心を隠して振舞う」ことが通常になっていることに加え、
ご自身の快の感覚は感じ慣れていません。
そのため、予想外に楽しく過ごせたり、純粋な親切を受けたりしたとき、
それをそのまま「嬉しかった」と感じることが難しいのですよね。
そのため、嬉しかった時ほど、
後に「もっとちゃんとお礼をすべきだった」「自分だけ話し過ぎたのではないか」等と悶々としてしまうことがあります。
ただ、この場合も実際にその時のご自身の言動が客観的に不適切だったというより、
「感じきれる範囲を超えた喜び体験をしたのかもしれない」という可能性が高いです。
いずれにしても、「自分のせいと思うときほど、自分のせいではない」ということがポイントです。
「自分のせい」という思考に気づいたら、
「何かストレスになったことはなかったか」あるいは「予想以上に嬉しかったのかな」と、ご自身に聞いてみてください。
丁寧に振り返ってあげると、当てはまっている原因を見つけられれば少しすっきりできることが多いです。
聞き方
他の記事でも書いていますが、ご自身に気づくとき、
自分の反応に対する「聞き方」は気を付けたい点です。
「聞き方」は意識すれば比較的容易に調整ができます。
ブログの文字でお伝えするのが難しいですが、
「自分のせいと思うけど何かあったかな」「なんでこんなに考えちゃうのだろう」と
自分に"聞く"とき、
子猫に聞くような声色
を心の中で発生させてください、どうか、ぜひ。
ペットを飼っていらっしゃる方は、その子に話しかけるようなイメージです。
決して、
「どうしてなの!?」
というような問い詰める態度はしないでいただきたいなと思います。
フリでよいので、自分を顧みるときの心の声を穏やかに優しくしてみてください。
優しい振り返り方を繰り返していけると、自分を崖っぷちに追い詰めるような感覚が和らいでいけるのではないかと思います。
「自分のせい」と思うのは、これまで整理したように、苦肉の策であり、自分も周囲も守るためにできた反応です。
「自分のせい」という反応が自動的に起きることに気づくだけで充分です。
さらにできれば、“自分のせい”という思考は「ずっと自分を助けてくれ続けているんだ」と理解を深められると、
少し息が入るのではないかと思います。
↓押してくれると寝子が「自己否定思考」に感謝の念を持てます!!
↑「思考力」を味方に!!!
久しぶりにちゃんとした心理っぽい記事を書けて、一人こっそり喜んでいますw
最後までお読みくださってありがとうございました!
またのお越しをお待ちしております(*^_^*)