こんにちは~
「いつぶりだよ!?」という感じですが、久しぶりの投稿です。
今日は私の話「ある性被害サバイバーの一事例」として、
最近の気づきを綴りたいと思います。
最近、SEやIFS(内的家族システム療法)のトレーニングを本格的に行っている中で、
他の心理療法と同様に「自分自身でやってみる」という体験を重ねています。
要するに「特定の療法のカウンセリングを受けている」ということになります。
それで、改めて自分のトラウマについて気づいたことがいくつかあるので、
そのうちの一部を整理したいと思います。
目次
IFSの概要
IFS(内的家族システム療法)というのは、
「パーツアプローチ」の元になった療法です。
パーツアプローチの方がはるかに分かりやすいのですが、
実際に臨床に使うとなると、やはりIFSは必要だと思い、学んでいます。
パーツアプローチの記事で述べたように、IFSの主要な概念は
・複数のパーツが存在する
・すべてのパーツに役割がある
・すべてのパーツの目的は「その人を守る」こと
・その役割を手放せないのは恐れから
パーツアプローチの記事と内容が重なるところがありますが、
IFSの要点を整理します。
複数のパーツが存在する
私たちは従来、
「本当にやりたいことは?」「本性が出た」「ホントは嫌だったんだ」など、
1つの感情や思考を見出すように教えられてきた背景があります。
なので、「やりたいけどできない」であったり、「止めようと思っているのに止められない」などの「相反する気持ち」があると
「矛盾している」と捉えてしまい、自分を「一貫性のない人間」と思い、
ご自身を責めてしまいがちです。
IFSでは、「相反する感情や思考、行動は複数あるもの」という前提に立ちます。
そして、それらを「パーツ」と呼び、私たちはパーツに気づき、
それらのパーツを忌み嫌っている状態から和解する(仲良くなる)ことで、
症状の改善と生き方の変容を目指します。
『インサイド・ヘッド』
「パーツ」の話をすると、複数の方が「『インサイド・ヘッド』みたい!」とおっしゃったので、私も観てみました。
ディズニーの映画ですが、「喜怒哀楽」がまさにキャラクターに分かれて描かれていて、とても素晴らしい映画でした。
パーツアプローチやIFSという心理療法がどういうものか、概要を理解するのにはもってこいの映画だと思います。
ご興味があるかたはぜひ『インサイドヘッド』お勧めです♪
すべてのパーツに役割がある
個別のカウンセリングでは、それぞれのパーツの役割についてより細かく丁寧に理解していきますが、
ここでは一般的に見受けられるパーツの役割を例示したいと思います。
例えば、「怒り」には、自分にとって大事なことが侵害されていることを知らせてくれる役目を担っていることがあります。
外部に表現するかは別として、少なくとも自分自身には
「大事なことが傷つけられるかもしれないから守らないと!」
と気づくようにしてくれていることがあります。
「不安」は、この先の変化に対する心身の準備をしてくれていることがあります。
その場になったらちゃんとできるように、ストレスの前倒しをして、本番に備えてくれているかもしれません。
「自己否定」は、外に対する巨大な怒りをなんとか中に留めるために攻撃の向きを変えたものかもしれません。
あるいは、「自己否定」をすることで周囲から心無い言動を受けることに対する耐性をつけて、懸命に心を守っているのかもしれません。
同様に、摂食障害や自傷行為は、圧倒される感覚を自力で戻そうとしたり、逆に麻痺させることで、
その瞬間を生き抜こうとするという重大な役割を担っていることがあります。
このように、ご自身の中には複数のパーツがあり、それらにはそのパーツなりの役目があると考えます。
すべてのパーツの目的は「その人を守る」こと
では、「喜怒哀楽」のようにパーツが複数あるとして、それが精神疾患を代表とする苦しみとどう関係するかといいますと、
苦しい状態は「それぞれのパーツたちがバラバラで対立している」からであると捉えます。
これが「解離」といえます。
ディズニー映画『インサイドヘッド』で描かれていたように、
「“喜び”だけ良きものとして“悲しみ”は出てこないで」とし続けてしまうと、
喜びも悲しみも感じられなくなって、
「自分」というものがわからなくなってしまうのですよね。
ただ、私たちは個人の問題を超え、
社会文化的にも「怒るのは良くない」「嬉しいときも謙虚でいろ」等という思考が根付いているところがあります。
だから、決して個人の歪みであるとは思い過ぎないでいてほしいなと思っています。
話を戻しますと、「それぞれのパーツ」がそれぞれなりの主張を繰り広げ、
他のパーツと仲良くできずにケンカしてしまうような状態が「苦しみ」を生みます。
例えば、ストレスが強くかかったときに、「怒り」と「不安」と「自己否定」のパーツがそれぞれバラバラに、そして同時に発動したらどうなるでしょうか?
ものすごく苦しくなることが想像できるかと思います。
そのため、私たち自身が、それぞれのパーツをみつけて役割を理解することが、バラバラだったパーツたちを繋げることになります。
このとき、どのようなパーツであれ共通している目的は
本人を守る
ということだと強調されています。
どのような感情も思考も行動も、
「その人を守りたい」という最終目標は同じなのです。
ただ、やり方が真逆だったりするので、ご自身にとってみれば非常に扱いずらく、
自分で自分を苦しめているような感じになってしまうのですよね。
その役割を手放せないのは恐れから
それぞれのパーツの役割というのは、第一段階までは先述したように気づくことはそんなに難しくないかなと思います。
ただ、実際には、これまで述べたような第一段階の役割に気づいた上で、
さらに掘り下げてあげる必要があることが多いです。
それぞれのパーツをさらに深く理解することが、回復には求められると感じます。
そこで、パーツの役割に気づいたうえで、
「それをしなくなると何が怖い?」
「それを止めるとどんなことが起きそう?」
と尋ねてみてほしいと思います。
自分との対話ですね。
では、この後は、「私」の事例で、実際にどのような過程になるか整理していきます。
良くなることへの抵抗感
記事の始めに「トレーニングの中で自分もクライエントの立場で心理療法を受けている」と書きましたが、
その過程で、私は「これ以上できない」という進まない感覚がジワジワと強くなっていっていることに気づきました。
それと共に「ほら、やっぱり良くならない」という反発心のような、怒りに似た感覚も出てきていました。
「進まない」「できない」「やっぱりダメ」
途中までは、進みは遅いけれども、私なりに効果を感じられていました。
けれど、頻度を増やし始めたころから、受ければ受けるほど、「進まないな…」と感じていき、
そういう回が重なっていき、
「できない」「やっぱりダメだ」「良くならないんだ」と、
失敗体験のようになっていきました。
そうなると、
その心理療法を提供してくれているカウンセラーの人(私はトレーニング中でもあるので先生のような存在)に疑念を抱きました。
「この人のやり方は合っているの?」と。
しかし、その人はその療法にもトータルの臨床経験も豊富な人で、私自身も信頼しているからこそ教えてもらっているのです。
そうなると、「カウンセラー側の問題ではない」となり、
「じゃあ、やっぱり私がおかしいのか」「私だから良くならないのか」
となっていきました。
「抵抗」をパーツとして考えた
だんだん、楽しみだった受講が憂鬱になり、終わり方も後味の悪いものになっていきました。
それでも不思議だったのは「じゃあ辞めようか」とはどうしても思えなかったのです。
それは無理をしているわけではなく、
「やりたい」と熱く思う体感は変わらず存在していました。
そこで、「じゃあもう一度ちゃんとパーツだと信じてみよう」と試みることにしました。
では、ここでいう「パーツ」とは何だろう?というパーツの同定から考えてみると
「抵抗」だと受け止めました。
「これ以上治療が進むことへの抵抗」「頭ではやりたいけど体はついていかないような抵抗」「変化するかもしれないことへの抵抗」。。。
「抵抗」と考えていると、それは「良くなることへの抵抗」だと思い至りました。
「忘れてたまるか」と決意した日
「良くなることに抵抗がある」と気づいたら、ふと思い出したんです。
中学の性被害後に
「この犯罪被害を忘れてたまるか」
と決意したことを。
この決意は、その後考え直されることはなく、最近意識に上がらなくなっただけで、
私の中であの時からずっと維持され続けていることに気づきました。
「“忘れられない”のではない。私の意志で、彼らが私にしたことを私は絶対に“忘れない”」
そう硬く決意した過去をはっきりと思い出しました。
私だけは忘れない
このブログの「ある性被害サバイバーの話」で書いていますが、
一応改めて私の被害体験を簡単に述べると、保育園時代と中2のときに性被害にあいました。
その加害者は捕まっていないどころか、訴え出なかったので、事件そのものが社会的に認められていません。
つまり、加害者たちはなんの裁きも受けていない。
そして、私自身が憤りを感じているのは、加害者に対してよりも「この世」でした。
私に限らず、こんな理不尽がまかり通る「この世」に強烈な怒りを抱きました。
直接的に犯罪を犯すようなおかしい人は存在するでしょう。
だから私が許せないのは加害者そのものではなくて、
「まともそうな顔をした周囲の人たち」
つまり「社会」でした。
中学生の被害は、その場で学校関係者および親に伝えられました。
でも結果として親は役に立たないわ、学校側は隠ぺいするわで、ろくでもなかったことが大きく影響したのでしょう。
当時の私の心に刻まれたのは「どんなに神妙そうにしても、この人たちはこの事件を忘れる」ということだったようです。
ただでさえ、公になかったことにされたのに、この犯罪を知った人たちももれなく全員忘れてしまう。
彼らが私にしたことを誰も覚えてなどくれない…。
だから
「私だけは絶対に忘れない。私が忘れたらこの世から彼らのしたことが本当に消えてしまう」
と思いました。
忘れないために治しきらない
では「私は絶対忘れない」ためにどうしたらいいか。
それは「治しきらないこと」だと思ったのです。
PTSDだろうとうつ病だろうと身体症状だろうとなんだっていい。
この犯罪被害を原因とした症状を治しきらないこと。
治しきってしまったら、私も忘れてしまうから…。
どこも痛まなくなったら、どんなに「忘れないように」意識していたって忘れてしまうと思った。
だから治しきらない。臨床心理士になれる程度には回復しないと困る。でも、全快してはいけない。
「この傷を治しきらないで、私は彼らのしたことを絶対に忘れない。このまま死んでやる。
それが、私がこの世にできる唯一の復讐だ」
そう硬く決意して守ってきた日々が鮮明によみがえりました。
内的対話を深める
ここで止めず、さらに深めようと試みました。パーツワークを信じ、
「忘れない。そのために治しきらない」とするのが「パーツである」と信じ、
内的対話を諦めずに続けてみました。
「何が怖い?」
まずパーツワークのマニュアル通り、「忘れたら何が怖い?」と内なるパーツに聞いてみました。
そうすると、最初はいくつか「ごもっともだな」という意見がでてきました。
「忘れたら、彼らが私にしたことがなかったことになる」という当初抱いた気持ちや、
「無神経な発言で被害者の人たちを傷つけるようになるのでは」という懸念などが浮かびました。
これらの気持ちや思考はもっともです。もっともだから私自身も納得しましたし、
「じゃあこのままでいいか」と、終わりにしようとした瞬間もありました。
しかし、これはパーツワークが最終的に目指すところには至っていないことは、知識として分かりました。
パーツを理解するのは最も重要な過程です。
ただ、その先に「そのパーツを安心させる」という段階が現れるとされています。
ですので、あまりにごもっともな「パーツの言い分」に納得しながら、もう一歩、内的対話を進めてみました。
「忘れたら何が起こる?」
「彼らが私にしたことを私が忘れたら何が起きる?」と、食い下がって考えてみました。
そうすると
「死んでしまう」
という心の声が出てきました。
「ああ、そうだったのか…」と、
ここでようやく腑に落ちたのです。
昔、駅から実家までの道のりにあった長い上り坂を「忘れないぞ!」という憤りと共に
必死で自転車のペダルをこいで坂を上がっている光景が思い出されました。
私は本当に自分の被害を「忘れるものか」と思っていると疑わなかったし、
その怒りは正当なものであるので、さらに根付いたのでしょう。
そしてそれは、当時必要だった。
その反骨精神で日々を生きるエネルギーを絞り出さないと死んでしまうから。
外に出すことはできないけれど、せめて自分の中だけで加害者を含めたこの世を憎み
「絶対私は忘れないからな!この世の理不尽によって生じた症状を残して死んでやる」と思うことで、
疲労困憊して学校や日常生活など到底送れない状態になってしまうことを防いだのだと理解しました。
「重荷」を降ろす
内的家族システム療法(IFS)では、それぞれのパーツの役割を理解した後に、
「それは昔に背負った重荷」と捉え、
その荷を下ろし、
「その役割がなくなったら、代わりに何に使いたい?」と進んでいきます。
「今は」なくて大丈夫
「今の自分が当時の自分を助けてあげる」という視点が非常に大切だとされています。
ただ、そうはいっても、私自身「今の自分をそんなに信用できない」のが本音です。
それでも、「この世に対する復讐心でなんとかエネルギーを絞り出さなければ死んでしまう」状態では“今は”ない、
ということは信じられます。
なので「もうそのことにエネルギーを費やさなくても大丈夫」と声をかけ、
「忘れないようにするために使っていたエネルギー、そこに費やさなくてもう大丈夫だから、
代わりに何がしたいかなぁ?」と、うっすら伺ってみると
「遊びたい」
でした
さらに
そこからさらに出てきた内なる声がありまして、
「てめー、心理士になることと、なってからは仕事のことだけしか見てないで、無視しやがって!!」
という、カオナシみたいなパーツが出てきたのです(笑)
そういえば、心理士に関することにしか注目してこなかったし、
一歩外に出たらなおさら仕事以外のことはなぜか「隠さないと」みたいな感じで日に当たることがなかったなと気づきました。
このことはまた別のときに詳しく書くかもしれません(*^_^*)
↓久しぶりの投稿にぜひ一押しを!!
↑皆様の一押しでパーツが喜びます!!
どんなパーツも、
根本的には「死んでしまう」と本気で思っている
とIFSでは述べられています。
だから、
そう簡単に変えられないし、なくすわけにはいかない。。
「死んでしまう」と恐れて懸命に守ろうとしてくれている。。
自分で思っているよりもはるかに巨大な恐怖を抱えている幼いパーツを見つけられたら、
心の中の対立が緩んでいけるのだと実感しました。
また今後の経過も整理していけたらと思っています!
最後までお読みくださってありがとうございます。
暑さが厳しいですが、みなさまどうかお体大切にされてください。。。
またブログでお会いできるのを楽しみにしております。