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性被害サバイバーの1事例 感情

「恨み」とは ~「決して忘れない」ための努力を見つける~

 

GWの方もそうでない方もこんにちは~

5月は一般的には気候が安定して過ごしやすい季節なので、

今年は気持ちの良い時期だといいなと思いつつ、

日々の天気をみています(*^_^*)

 

今日は、久しぶりに『ある性被害サバイバーの話』になります。

去年書いた『「忘れてたまるか」という決意の役割』の続きになります。

 

『「忘れてたまるか」という決意の役割』では、「怒りは生きるエネルギーになった」という内容でした。

確かに、それはそうでした。

 

けれど、それで私の中の理不尽なことに対する憎しみや恨みはそう簡単に収まるものではなかったようです。

 

そこで、今回は、私の中でやや解離させた「怒り憎しみ恨み」が、

今までどのような形で表れていたのか、

 

「自分の憎しみ探し」

 

をしてみました。

 

軽く書いたつもりですが、気持ちの良い内容ではないと思いますので、

お付き合いできそうなときだけ、お読みいただければと思います。

 

「憎むのはやめる」VS「憎み続けてやる」

『「忘れてたまるか」という決意の役割』という記事では、

 

「私が加害者たちがやったことを忘れてしまったら本当になかったことになってしまう。

私だけは忘れないと決意した」

 

と書きました。

 

確かに、思い出してみるとそうでした。

 

でも私の心に、もっとはっきりと自ら刻んだことは

 

憎むのはやめよう。どんなに正当な怒りでも憎み続けると自分が醜くなる」

 

ということでした。

 

「憎むのはやめる」という方がはっきりと認識していたので、

『ある性被害サバイバーの話』の初期に記してあると思います。

 

 

これ、わかりやすい両極端の反応で、

広い意味で解離しています。

 

より「自分ではないもの」として解離させたのは「忘れないぞという怒り」だったから、

気づくのが遅かったのでしょう。

 

「臨床心理士になる」

無意識に、

「忘れずに憎み続ける」

VS

「憎み続けると自分がもっとダメージを受けるから憎むのはやめる」

という真逆の在り方を両立させようとして出た答えが

 

「心理カウンセラーになる」

 

でした。

 

「臨床心理士になったらそれが性被害によってであることは自分の中で常に意識する。

だから性被害そのものは覚えていようとしなくていい」

 

と、整合性をとったのでした。

 

「怒り」は想像以上

「怒りには大切な意味がある」「怒りを感じることはいい」等と私も話していますが、

そうはいっても、やはり抱えるのは難しい感情です。

 

まして、人生を変えてしまうほどの人災にあったらなおさらです。

本当に、リアルタイムでストレートに怒りを感じたら、

 

身を滅ぼす

 

レベルなんですよね。

だから、トラウマを抱えた人の多くが抑えることで適応し、

しばらく経ってからジワジワと表面化するのだと思います。

 

私の怒り憎しみもそうで、自分の思考や行動を見渡してみると、

それまで自分の信念だと思っていたことが、

「恨みの矛先だったのだ」と気づきました。

 

そこかしこに散らばっていた「恨み」を集めてみようと思います。

 

「症状を治しきらない」

これも自覚していたつもりだったんですけど、本当には抱えられていませんでした。

 

私は今はトラウマの症状は「不眠」くらいです。

 

ただ、相当重い不眠症で、精神科で働いていても、

私ほど重い不眠症の方はめったにいらっしゃらないし、

私ほど睡眠に固執する人もめずらしいのです。

 

本当に、不眠症は治したいです。治すために今までできることは全てやってきました。

 

でも治らない。

 

一方で、

「トラウマ由来の症状を治しきったら忘れてしまう。だから治しきらないぞ」

と決意した自分もいるのです。

 

「もういいよ」とどんなに自分に言ってみても、どうにも届かない

「治しきらないぞ」という強烈な憎しみがある。

 

加えて、特定の誰かに示しているわけでも、症状があることで物理的な利益を得ているわけでもない(むしろマイナス)なのに、

 

「治りきってしまったら「その程度のことだったんでしょ」と思われる」

 

という意地がある。

だから、不眠にはほとほと困っているのに、意地でも治しきらない反応がある。

 

これが「恨みの現れその1」

 

「二次加害者のようにはならない」

これも『「忘れないぞ」という決意』の記事でも触れていますが、

 

私は、「ピンチはチャンス」のようなフレーズを毛嫌いしています。

加えて、職務上、そのような励ましをする機会が多いため、常に自制しています。

 

「トラウマがあるから今がある」とか

「そういう目にあったらから人の痛みがわかる」とか

「トラウマが今のあなたをつくった」とか。

ホント嫌なフレーズです。

 

自分でも似たようなことを発信したりしているのでそこは矛盾ではありますが(;’∀’)

 

でも、トラウマという理不尽で深い傷に対して、ポジティブな返しをすることは極めて慎重にしなくてはらないことで、

基本的には嫌悪しているほどに嫌いです。

 

そして、自分がそのうち

「トラウマ体験があったからあなたは優しいのね」だとか

「その体験があったから今の仕事に出会えた」とか言うカウンセラーになってしまうんじゃないか、

 

それだけは嫌!

そんなカウンセラーになりたくない!!

 

というものすごい強い拒絶反応があるんです。

 

そう意識し続けることで、自分の被害を忘れないように、忘れないために症状を治しきらないように、

その合理化として「無神経なカウンセラーにならないため」と理由づけして

「忘れない」を強化しています。

 

これが「恨みの現れその2」

 

「性的行為を認めない」

私は性被害直後からしばらく、性的行為に対する拒絶感がひどく、

それによって「私は幸せになれない」と死を考えるほど思い悩んでいました。

 

誰とも結婚せず、一人で生きていくパワーなんてないとわかっていた若き寝子は、

この性的行為に対する嫌悪感に、ずいぶん苦しめられたものです。

 

私は今でも、性的行為、性的身体接触を認めていません。

「認めていない」というのは、そこに精神的な愛情などが伴うことを否定しています。

 

でも、この年まで生きていれば、性的行為が単なる性欲だけとは限らず、愛情や幸福が伴うこともあるとわかっています。

 

それでも、認めない!!!

 

これが「恨みの現れその3」

 

「子どもを産まない」

私は漠然と「こんな酷い世に、子どもを産むなんで可哀そうだから私は子どもは産まない」と思っていました。

 

結果的に、私は子どもはいません。

もう産める歳ではなくなったので、この先も子どもはない人生に決定しています。

 

でも、やはり年を重ねて周りの人々や自分を知っていくと、

私が子どもを産もうとしなかったのは、

単に私に母性がなかったからだとわかるようになりました。

 

トラウマが原因ではなくて、シンプルに「子を産み育てる」という本能の欲求がなかった。

 

それを、途中まで「私は性的被害にあったから子どもを産もうと思えないくらいになったんだ(トラウマがなければ産みたかったはず)」と思っていた。

 

これが「恨みの現れその4」

 

「人を頼らない」信じない

私は、基本的に人に頼ろうとしません。

「迎合」はできても、いつもどこかで人に対して不信を持っており、昔から人に本当の悩みは言いません。

 

そうやって、「迎合」と「不信」という自分の本心とは異なる対人関係を繰り返していると

 

「やっぱり孤独だ」

 

という認識が強化されます。

 

これは必然的に社会に対する不信感、警戒心につながります

そうすることで、人からされた被害を忘れないようにしている。

 

これが「恨みの現れその5」

 

「恨み」とは「忘れない」ということ

なんだか救いようのない内容が続いてしまいましたが(;’∀’)

 

ここから少し「恨み」の理解につなげていきたいと思います。

 

ここで私がざっとあげた「恨みの現れ」は、出方がいくつもあるものの、

 

「やられたことを忘れないぞ」

 

という1つの目的のためです。

 

そう、「恨み」とは「忘れないこと」なんだなと改めて実感しています。

 

「恨み」と出会う

人は、「忘れる」ことは努力しないでできる、

言い換えると努力しても忘れられない。

 

一方、

「忘れない」は、がんばれば達成できる。

言い換えると、頑張り続けないと忘れてしまいます。

 

もし、「怒り憎しみ恨み」が、ひょっとして自分が思っていなかったことにも表れているかもしれないと思い、私のようにいくつか心当たりがあったら、

 

そこで初めて、

分散しなければならないほどの「恨み」が、持ち主である自分自身にやっとちゃんと見てもらえた

ということになります。

 

「見つける」ことの意義

怒りがあること、憎しみ恨みがあることには気づいている場合がほとんどだと思います。

 

ただ、それでも、本当にそのまま感じてしまったら身を滅ぼすほどの表現しがたい怒りだから、

気づいているとしても薄目でチラ見くらいしか、見れていないものなんだなと再認識しています。

 

だから、もし時期がきたら、柔らかい心持ちで

「恨み探し」してみるのもアリかもしれません。

 

漠然とあまり見ないように、見たとしても薄目でチラ見レベルから、

あちらは(憎しみ)小分けにしてくれているので、

1つ1つ、見れそうなところから見ていってあげると、

漠然と膨大に膨らんだ憎しみが、姿形がはっきりして、自分の中に置きどころを見つけられるかもしれません。

 

「怒り」から「恨み」に

「怒りは生きるエネルギーになる」といいます。その通りだと思います。

 

ただ、トラウマ由来の「怒り」は

圧迫され、

なかったことにされ、

でも最低限のエネルギーを作り出すためには必要で。。。という、

かなりこじれた状態で活躍しているんですよね。

 

そもそものシンプルな「怒り」は、認められないまま、外から踏みつけられてしまったまま、

その役割をなんとか果たそうと孤軍奮闘している。

 

そうしていくうちに、最初はシンプルだったものが「恨み」になっていくのかなと、「私の恨みたち」をイメージしました。

 

「恨み」があるうちは、トラウマは取り残されているんだろうなと思います。

 

でも、別にそれでいいんだとも思います。

 

「恨んじゃいけない」なんてことはない。

 

同じ気づきを重ねる

ただ、気づいておけると日々は変わると思います。

気づいたら選択ができるから。

そして、

「自分に気づく」ことは自分への理解が深まります

自分への理解が深まるということは、自分が自分の味方になっていくことです。

 

「選択」は「自由」を心身に実感させてくれます。

そして、「選択」には「自分への正しい理解」が不可欠です。

 

「恨み」の怖さというのは、気が付かないうちに自分自身をガチガチに縛ってしまうことだと感じます。

 

「こうしちゃいけない」「酷いことをしてしまった…」「二度と繰り返してはいけない」などなど。。

そして、本来の「〇〇したい」という欲求、希望を全否定して抑える強力さがある。

そう抑えることで、自他に危害を加えることを防いでくれているのでしょう。

 

強固だからこそ、同じ内容でも「気づき」は重ねていけると少しずつ緩んでいける気がします。

 

「恨み」だって、そもそもはシンプルなものだと思います。

 

「見てくれなかった」「認められなかった」「助けてもらえなかった」「無視された」「傷つけられてそのままにされた」

 

こういったことの集合なんだと思います。

 

だから、気づいて、見て、「そうなんだ」とただ受け止める。

それを重ねていくことが必要なのかなと思います。

 

「社会」より身近な「原家族」

これはオチとしてなんですけど、

 

こんな感じで私自身の恨みに改めて気づいていった結果、

私が恨んでいるのは「この世」というより

 

「原家族」

 

ってわかったw

 

「こんな理不尽なことがある"この世"に対する反発

 

と中学生のころから思っていた。

 

でも、それは、それこそ子ども時代を生き抜くために見出した「怒りの矛先のすり替え」で、

私が憎み恨んでいるのはこの世というより

 

原家族(リピートw

 

なんだなと、しみじみ痛感しました…。

 

でも、その下で生活しなくてはいけなかったので、

「この世」という対象を漠然とさせて憎しみを逃がしたんだろうと思います。

 

 

↓「恨み」は悲しさかもしれない。

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この「恨み」が今後どうなるか、観察していきたいと思います!

 

 

GWがお休みの人もそうでない人も、楽しみな人もゆううつな人も、

 

みなさまに幸多からんことを!

 

 

ではでは、またのお越しをお待ちしております(*^_^*)

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